先週末のプレゼント交換でいただいた椎茸の株は、なにもないところから一挙にぽこぽこ生え出して、一日のうちでもすこし目を離すとまた大きくなっているくらいだから凝視していれば成長が目に見えるのではないかと思う。かなり密集しているから間引いたほうがいいのかもしれないし、そろそろ収穫できそうなものもある。この収穫を見届けるためにやはり明日にしようかと真剣に悩みつつ、午前中は原稿に手を入れる。とりあえず置いておいた断片をDynalist で順序を入れ替え、それなりに繋がりそうな目処がついたら段落単位で書き加えたりごっそり捨てたりしていく。それで流れてきたなーと思えたらDocsに移し替えて、重たい部分を脚注に逃したりしながら整えていく。まだ書いていないけれど必要そうな節はハイライトしておいて、そこはまたDynalist で素材となる断片を仕込んでおく。日記は一気呵成に書くから当然流れるのだが、こういう素材を並び替えながらどうにか組み立てていく書き方は、最後の最後まで流れるかわからないまま準備や調整をしていくから手応えがなくただ労働しているという時間が長い。ここを抜ければすごく楽しいからがんばろうね、と声をかけてあげたい。うるせえ、と応えるだろう。
お昼に昨日の鶏すきに豚バラとトマトを加えて煮て、さらにうどんも投入しちゃう。棚橋の特番を見ながら食べて、それから荷造り。料金もそうだけれど、繁忙期の混雑で疲れちゃうのは嫌だったので今日のうちに名古屋に行く。荷造りは思ったよりスマートにできる。スマートEXもいつのまにかSuicaと紐づけられていて簡単だった。旅慣れてきたなと思うし、数ヶ月であっさり旅慣れているという自覚はなくなるともわかる。
新幹線では『山學ノオト』と『「手に負えない」を編みなおす』を読む。『山學ノオト』はイベントで話しそうなところや自分が出てくるところに付箋を貼っていたのだけど早々に切れてしまったのでドッグイヤーになる。あと一ヶ月くらいを残して『「手に負えない」を編みなおす』を始めるとのっけから愉快な気持ち。序文がよいし、書き出しもよい。しかし序文と書き出しの軽やかさに対して、そこから始まる文章はずっと小説の書き出しの数段落のような重さが持続していて、それはつまりこれはどういうものとして書かれ読まれるのかを一文ごとに問い直すような書きぶりということで、書かれ読まれる根拠がどこにもないまま、そのつど書かれることそれ自体によって読まれる理由となるかもしれないという薄い信だけをよすがに手探りしていく、その立ち上げる瞬間瞬間の重たさが数回にわたってずっと続く。この粘り強さはなんだろう、と驚嘆する。こちらもずっとどう読めばいいのかわからないまま、読んでいくほかない。しかし、そのように五里霧中の自縄自縛のまどろっこしさこそが作家友田とんの真骨頂なのであり、この本ではついに友田さんのナンセンスな実践を、読者は相対化して笑うのではなく一緒になぞっていく、そういう本なのだと思う。すごい。
さて名古屋は暑かった。電車が暑いのだ。この前優先席に人が平気で座るようになって久しいというような話題を見かけたのだけれど、これは東京だけかもなとも感じ、じっさい名古屋の電車は混んでいたけれど優先席は空席のままだった。実家までの道のりもずいぶんと景色が変わった。もう最近はこういう変化にまったくときめかない。すべての変化が悪いもののように感じてしまう。つまり、成長ではなく衰退、繁栄ではなく頽廃でしかないように思えてしまう。この悲観がありふれた加齢のせいであればまだよいのだが、と思う。
夕食はクリスマスらしいものを用意してくれていた。チキンとグラタン、スープとパン。お風呂に浸かりながら大谷能生『散文世界の散漫な散策』を読み終える。
