目覚めた時に少し安心する。喉の痛みがやや引いていたからだ。脚の傷はいまだ鬱陶しく、花粉で頭がぼーっとする。本を担ぎすぎたのか、昼過ぎから右肩から首筋にかけてぴきっときて腕が上がらなくなった。満身創痍。体も重いし、なんということだろう。のど飴は切らしていたので漢方薬局で補充する。本屋を巡って『ゲンロンy』を入手。
特集1を読んで、状況論として明確な異論を出そうとは思わないけれど、やはりちいかわが流行るような状況は嫌いだなあと苦い気持ちになる。このような時代に似合いたくない。締めの福富渉「タイのキャラクターとマイペンライにまつわる覚書、2025年版」で描かれるおおらかなキャラクターの展開にあははと笑い、しかし、最後に示されるタイ国内の政情の不正と混乱への対処として今は《自分のために楽しく時間を使う時期1》であるという割り切りがあるのだとする視点にようやくこの特集の狙いが腑に落ちる感じがした。《資本や消費の文脈に回収されることが前提2》の《おとなしく、静かに、丁寧に暮らしていく3》ような態度は、どうにも物足りなく反動的に見えてしまうのだが、冷徹な現状認識と深い諦念のもとにある身のこなしなのだろう。その先に何があるとも思えないのだけれど、かといって夢も希望もないという前提に立ち、日々の「かわいい」や「メンケア」を指先で「手づくり」していくほかないであろう状況下で、ただ威勢よく反抗の身振りだけしてみせてもまったく見当違いであろう。中村拓哉のように革命への志向をベタに保持しているものが一本でもあって安心ではある。でも、まあアナクロ感は否めないし、安心している場合ではない。けっきょく暗いな。この暗さをSo it goes とばかりあっけらかんと前提に置くほかないということに戸惑い慄くという時点で、すでに僕は旧世代の側に立っているのだなと思わなくもない。でもそもそもこれまで時代に似合ってるなあと嬉しく思えたことなどないから、ずっとこうなのかもしれない。なんにせよ、こんなに節々が痛んで集中力に欠いていてもさくさく読めていい雑誌だ。
ルドンがソファでの爪研ぎにハマり、みるみるみすぼらしくなるソファを奥さんがパッチワークですてきに繕う。爪と手先の攻防がつづいている。手に負えないものに対する絶え間のない対処。対症療法というのは姑息と言われたり散々な評判であるが、毎日はそうとしかできないようなことばかりである。原因や構造を撃てないからといって、手をこまねいているだけではいけないだろう。
このような気分や必要への共振はありつつ、しかしなんでもかんでも行為すればいいってものでもないから難しい。行為がいちばんであるという決断主義へのやだみもまた強く持っている。
