昨晩は奥さんが不在でつまらないので高田馬場でとんかつ食べてHANABIで飲んで帰った。ちゃんべさんの日にHANABIに行くのは初めてで、ちゃんべさんはさめない社交にも来てくれていて話してみたかったので嬉しい。こんど髪を切ってもらいたい。とんかつ屋で飲んだビールが効いてはなからずいぶん酔っていた。というわけで今朝は寝坊し、やる気もなかったのでちんたらと支度をして、でろーっと寝そべるルドンを捏ね、あまりに弛緩し切っている寝姿にだんだん不安になったりしてから家を出て、そのくせそこまでタスクもなく、わざわざ家を出た馬鹿らしさに腹が立ってきて早々に退社し、戸山公園で豆腐さんがやっている花見にふらっと参加することにした。
花見ではあげどりさんやとらいさんなど蒲田でご一緒した面々ともお会いできてハッピー。あげどりさんにまた大相撲を見たいこと、プロレスの両国大会も一緒にいきましょうと約束できたことが嬉しい。とらいさんが初夏に催すというANTについてのイベントも楽しみ。そのほかの方々も面白そうな人ばかりで、いちいち話が興味深かった。染色と南極。
花見の帰り道は『衣服と言葉』を読んでいた。バルトが文体と言語体とを繋ぐ中間項としての書き言葉の型を据えた発想を使って、服装というコーディネートを考えていく。ドゥルーズのいうアレンジメント、つまりどう並べるかという生理感覚と共通コードとのあいだでの緊張関係。dispositionとしての配置は、いかにしてcompositionとしての構成となりうるのか。それは個人の好みのリズムやフローといったスティルと、言語の普遍性としてのラングとの関係と相似であり、この両者を繋ぐものとしてエクリチュールという特殊性-一般性に属する書き言葉の型がある。書き言葉とはまず型であり、書き言葉の開発によって初めて言葉遣いの範例というものができる。話されている言葉がそのまま書き言葉に写されるのではない。書き言葉の成立の後に、「正しい」言葉遣いの一般性が生まれ、少なからぬ話し言葉らの差異が特殊性として矯正されたり特権化されていくことになるのだ。
十八世紀日本の国学者の音声中心主義には、中国の「文化」の支配に対する政治的な闘争、あるいは、中国的哲学が幕府の公的イデオロギーであるがゆえに武家体制へのブルジョア的な批判が含意されている。国学者たちは、八世紀から十一世紀に書かれた、『古事記』、『万葉集』、『源氏物語』などに、漢字以前の日本語と、それに対応する「古の道」を見いだそうとした。しかし、彼らが完全に忘れているのは、そうしたエクリチュールが、音声を表記することからではなく、漢文を読みそれを日本語に翻訳することからはじまったということである。
たとえば、ダンテが俗語で書いた場合、それは当時の音声言話をそのまま写したのではない。彼は、イタリア地方でのさまざまなidiome (ソシュール)から、その一つを選んだ。しかし、彼のエクリチュールがのちに規範的なエクリチュールとなったのは、標準的なidiome を選んだからではなくて、彼がラテン語を翻訳するかたちでそうしたからである。そのことが、他のidiomeを方言として駆逐することになったのだ。同じことがフランス語やドイツ語についてもいえる。俗語はなるべくラテン語やギリシャ語に「似るように」書かれたのである。たとえば、フランスでは、一六三五年に、アカデミー・フランセーズが、「国語に明確な規則を与え、それを純正に、雄弁にし、かつ芸術と学問を取り扱うことのできる言語にする」ために設立されている。しかし、これをフランス語が改良されたと考えるのはおかしい。すでにのべたように、語られる言葉としては「フランス語」は存在しておらず、書かれる「フランス語」がのちに話されるようになっただけである。エクリチュールとしての「フランス語」は、いわばラテン語の翻訳としてあり、そうであるからこそ「芸術と学間を取り扱うことのできる言語」となったのだ。デカルトがラテン語とフランス語の両方で書いたこと、そして彼のフランス語が規範的となったのも、そのためである。しかし、もともとそれはラテン語自体にもあてはまる。イタリア地方の一つのidiome でしかなかったそれが、「芸術と学問を取り扱うことのできる言部」になったのは、それがギリシャ語文献の翻訳によって形成されたからであり、そのことにはギリシャ人自身が参与しているのである。
柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』(講談社学術文庫) p.81-83
