週末は大阪で、片道三時間くらい、府内でも四十分の移動を三セットとかやっていたわけだから一日のうち四から五時間移動していた一泊二日だったわけだけれど、きょうも四時間移動で二時間稼働というふうな組み立てで、こうやってみて思うのは、時間や空間の差異をできるかぎり無化しようとする効率化の試みは、ひとからのんびりした無為な移動というものを奪っているなというそれ自体は陳腐な実感だ。移動自体はくたびれるものだけれど、どこにも足がついていない宙吊りの時間があることって割合大事で、在宅の日も二時間くらい散歩した方がいい気がする。ただある地点からある地点へと体を運ぶということでしか取り戻せない個体の感覚というものがある。それがなくなると簡単に観念的に、即時通信可能なデータとして「私」が先鋭化されていく。日記やポッドキャストのような弱い制作も、移動中こそ必要な暢気さとぶっきらぼうさを引き連れてくるようで、週末の日記を往復の移動でiPhoneの小さな画面で書き継ぐというのはちょうどいい気楽さがある。楽しい日のディティールがあっけなく見捨てられていく。一日の密度ってこのくらいスカスカでいい。無内容で大したことないことの大事さ。なんかいいものをなんかいいで済ませることについては、あらゐけいいち『雨宮さん』でも描かれている。きょうはもう移動だけでいい。行ったらオッケー。そういう日で、なにひとつ大したことないまま終える。「大相撲受信中」を聞いて、もう五月場所が始まっている。今期アニメの整理をしなくては。五話まで見て面白くなかったらもう面白くないだろう。
