昨晩からすごい降りの雨で靴のなかまで濡れてしまった。昨晩入念に奥さんに揉んでもらってようやく足先からふくらはぎにかけて血流と体温が戻ってきた感覚があったが、湿った靴下からまたじわじわと冷やされていってしまいそうだ。しかし昨晩の脚のマッサージはやばかった。痛すぎて悲鳴と喘ぎ声が響き渡ったし、足裏からびちゃびちゃと汗が噴き出て止まらなかった。老廃物が無限に出てきて怖かったし、みるみる血色がよくなっていくのが表皮の感覚レベルで感知できた。ともかく、足は濡れているし、出がけに指のささくれから血が噴き出して着ていくつもりのTシャツを血で染めてしまったし、労働もなかなかにハード。出がけの出血騒ぎの忙しなさで朝の髭剃りをし損ねているのもけっこう気分が落ちる。社交までに床屋に寄ったりできるだろうか。できるだけシャキッとして挑みたい。労働中、ずっと昨晩から伸びてしまった分の髭の感触を掌で確かめ、足の指を靴のなかで動かしては靴下のぐっしょり具合を確かめていた。ようは散漫だった。
高田馬場に辿り着いて社交が始まる。今晩ははじめましての回。雨だし人が来るか不安だったけれど順調に席は埋まり、かといってぎちぎちでもない塩梅でちょうどいい。程よい距離感と温度で社交っぽかった。とてもよかった。やってみてわかったこととして、今回のように「はじめまして」を前面に押し出すことによって開かれる部分は、ほんのすこし当初の気分とはズレていることにも気がつく。
かつてインターネットに感じた面白さって、 受信者と発信者の垣根が容易に撹乱されるところにあったように思うのだけれど、いつしかフォロワー数なり、稼ぎなり、なにかしらの数値を元手にアテンションを稼ぐみたいな、そのへんにある「現実」の延長としてばかり目立ってる。 小さく、でも誠実に、なにかを作ったり考えたりしている人の居場所はどこに? ひとりでいると、何か作るのがただ楽しい、という気分を、スケールすることを気にせず保つのが難しい。 でもべつに、熱々の仲間意識で群れたいわけでもない。 ほどよく他人と雑談して、帰って一人で制作を再開する。そのくらいの塩梅の場所。 ざっくばらんに交流できて、新しい制作のきっかけになる。 そんな場所が欲しいのでやってみる。
ステートメントにはこう書いている。それでいうと、今回のような設定でいくと《作ったり考えたり》を実践している人がとりあえずそれを開示して見る場所というよりも、漫然と人と会いたいという気分のほうが優勢になりそうな気もした。別にそれでもいいのかもしれない。なにかを持ち寄るような気前のよさの循環さえあればいい。でもやっぱり自分でなにかを《作ったり考えたり》しているほうが、相手に差し出せるものを持ちやすい気はする。たとえば昨日最高だったのは、しれっと声優による発声練習が発生したことだ。技術や知識や視点の交換。そういうのがあると嬉しい。
漫然と人に会いたい気分というのは、心細さや寂しさ、物足りなさから派生するものが多いだろう。そういうときのおしゃべりは、自身の報われなさや似合わなさあるいは認められなさに対する不平不満の表出になりやすい傾向にある気がする。社交は虚栄や痩せ我慢のアリーナであるべきだ。そういったありふれた愚痴や弱りは抑制して優雅に振る舞うことをこそやはり社交では行いたい。愚痴や弱音を話してはいけないということではない。愚痴にもエレガンスやユーモアが必要だろうという話だ。
しかしあれだな、こうしたやや心配が勝ちすぎる印象はむしろ僕がさいきん《作ったり考えたり》を怠っているというのが大きそうだ。受け身でもらってばかりでは腐る。世にこれがあったほうが嬉しいという思い込みがだいぶ弱くなってきている。本を作らなくては本でなくてもいいのだが。トライしているあいだって健全というか元気いっぱい流れていて淀んだり臭くなったりしにくいし、僕はそういうのが好きなはずなのだが疲れてサボるとどんどんだめになっていくお年頃。めっちゃ教条的で権威ぶった社交術の本でも作るか。はんぶん冗談だが、冗談めかしてちゃんと作るべきかもしれない。幼稚さに抗えという話をずっとしているのだから。
