2026.05.28

一日に一章のペースで『内在的多様性批判』の再読を進めながらあれこれを並走させている。『アーレントと黒人問題』を久しぶりにひらく。アーレントの洞察を基礎付ける「私たち」の人間観は、黒人を「彼ら」として外在化させ盲点へと追いやることでなりたっている。「活動」を可能にする物質的条件を奴隷労働のような形で外部委託することにかんして、手段は目的によって正当化されるとでも言わんばかりのアーレントの態度は、その明晰な思想から導かれる論理的必然性を有しているわけだが、われわれは洞察を理由に盲目を看過してはいけない。そういう話だったかは定かではないが、学生時代にわからないまま目を通したきりのド・マンの『盲目と洞察』も読み返したくなってくる。分けると分かるというような陳腐な発想は、分節化し部分ごとの分析を通して全体に至るという発想の端的な要約であるだろうが、それとは別に分けすぎず撚り合わせるような知の体系というのもありえる。前者の論理的一貫性は、後者の捨象とセットである。理性の外部を理外として排除するような「経験的-超越論的二重体」としての「人間」の成立史について、久保の以下の整理は非常に巧みだと思う。

「経験的-超越論的二重体」という「人間」は、有限な経験しか持ち得ない個人が、有限性を自覚しつつもそうした経験を論理的に超える(=超越論的)地点にある「人間」と自らを同一視することで成立する。超越的な審級に神がある場合は《神について語り祈ることは世界に実在するものを理解しそれに介入する営為》であったが、「人間」を根拠とすることで経験の外にある世界を神の実在を不問としつつ語り理解することが可能になった。この「人間」は《経験的な事象から経験を超えて経験を規定する条件を論理的に導出しうる人間の理性的な思考》をもつ。この理屈からすれば、《人間だれしもが備える理性的な思考を適切に用いていない》ものたちは、「人間」とは言えない。だからアーレントは、白人の侵略者が植民地においてなした数々の虐殺とホロコーストを区別する。前者は「人間」による非理性的で非文明的な《「私たち(近代人)とは異なる他者」》の虐殺であったが、後者は「人間」による「人間」の虐殺だからこそ特異なのであると。ガインズはデュボイスやプレスビーとともに応える。ふざけるな、と。そして久保は問う。理性というものが西洋近代のローカルなものでしかなかったとして、理性的に文明化されているか否かという尺度からはとうてい同じ人間とは思えない人間たちと共存することはいかにして可能か。

明日の社交に向けて慌てて脛毛の脱色を試みる。奥さんに頼らず頑張ろうと思っていたのだが、けっきょくうまくいかず、脱色は諦めて漉くことにする。なんか漉く道具を出してきてくれてやってくれる。おめかしの準備は前日にばたばたしてやるものではないが、前日にばたばたやるものである。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。