一日に一章のペースで『内在的多様性批判』の再読を進めながらあれこれを並走させている。『アーレントと黒人問題』を久しぶりにひらく。アーレントの洞察を基礎付ける「私たち」の人間観は、黒人を「彼ら」として外在化させ盲点へと追いやることでなりたっている。「活動」を可能にする物質的条件を奴隷労働のような形で外部委託することにかんして、手段は目的によって正当化されるとでも言わんばかりのアーレントの態度は、その明晰な思想から導かれる論理的必然性を有しているわけだが、われわれは洞察を理由に盲目を看過してはいけない。そういう話だったかは定かではないが、学生時代にわからないまま目を通したきりのド・マンの『盲目と洞察』も読み返したくなってくる。分けると分かるというような陳腐な発想は、分節化し部分ごとの分析を通して全体に至るという発想の端的な要約であるだろうが、それとは別に分けすぎず撚り合わせるような知の体系というのもありえる。前者の論理的一貫性は、後者の捨象とセットである。理性の外部を理外として排除するような「経験的-超越論的二重体」としての「人間」の成立史について、久保の以下の整理は非常に巧みだと思う。
デカルトの議論は、その一般的な理解に反して、対象(動物・機械・人間)を外部から分析者(人間)が客観的に比較したものではない。機械に関してはその制作者として、生物に関してはその一部として、人間(比較するもの)は比較される対象に内在している。同時に、デカルトの議論はこうした比較の内在性を捨象することで成立している。まず、機械に特定の目的や形態や動力を与える制作者たる人間の存在が捨象されることで、自律的に動作する機械の姿が得られ、それと類比的なものとして生物一般が把握される。次に、機械は制作されるものだという前提を暗に再導入したうえで生物一般を機械に擬えることで、目的因・形相因・動力因が生物の内部から抜き取られて制作者としての神に付与される。そして、信仰と理性を通じた神との関係によって、人間の半身である「人間精神」(思惟)が他の生物や人間身体(延長)が属する自然界から抜け出し、「自然の主人にして所有者」としての地位を獲得するのである。
タンバイアの議論に欠けているのは、宗教改革と近代科学の接点となった「神=自然」という形象から「神」が抜き取られていくプロセスが「人間」の位置づけの変化と連動しているという観点である。「自然の設計者としての神」の意思を知ろうとする宗教的かつ科学的な実践が、「自然の主人にして所有者としての人間」が世界を理解し制御しようとする科学的で技術的な実践へと次第に置きかえられていく。科学的実践を正当化する根拠が、神による世界の制作からそれを適切に理解できる人間精神のあり方に移動したからこそ、近代科学は「証明と実験というそれ自身の法」を発展させることができたのである。
ただし、デカルトの機械論哲学は、依然として実在する神をその不可欠な構成要素としている。人間が「自然の主人にして所有者」としてふるまえるのは、自然を制作した神と人間精神との間に透明な連絡通路が確保される限りにおいてである。だからこそデカルトは、神や悪魔が人間の精神を欺いている可能性を論理的に排除し、人間を欺くことのない誠実な神の存在を証明する必要に迫られることになった。
だが、理性を超える存在を理性的に証明しなければならないという、この極めて厄介な課題は、一八世紀後半にカントが推進した理性批判を通じて次第にその必要性を弱めていく。実在する神は、理性的に把握しえない「もの自体」に置きかえられ、その代わり、経験的な事象から経験を超えて経験を規定する条件を論理的に導出しうる人間の理性的な思考(超越論的主観性)に、世界を適切に理解し世界に適切に働きかけうることの根拠が移動する。ミシェル・フーコーが『言葉と物』(一九六六年)において「経験的-超越論的二重体」と呼びなした人間の両義的なあり方において[フーコー ー九七四]、世界の最終的な根拠たる権能が、実在する神から人間に部分的に委譲されていく。デカルトが証明しようとした誠実なる神の実在は論証不可能なものとして後景に退き、それに代わって人間精神の誠実なる働き(理性、知性、知能)が中心的な問題になる。神について語り祈ることは世界に実在するものを理解しそれに介入する営為ではなくなり、個々人の内面における信念の問題へと変化していく。そこにおいて、呪術は単に何の効果もない行為であるだけでなく、信仰を内面にとどめず世界に介入しようとする営為、実在に関する誤った信念に基づいて科学の領分を荒らす行為(誤った科学)として把握されることになる。いまや呪術に頼る人々が「私たち(近代人)とは異なる他者」であるのは、異なる神を奉じているからではなく、人間だれしもが備える理性的な思考を適切に用いていないからである。
久保明教『内在的多様性批判——ポストモダン人類学から存在論的転回へ』(作品社) p.28-29
「経験的-超越論的二重体」という「人間」は、有限な経験しか持ち得ない個人が、有限性を自覚しつつもそうした経験を論理的に超える(=超越論的)地点にある「人間」と自らを同一視することで成立する。超越的な審級に神がある場合は《神について語り祈ることは世界に実在するものを理解しそれに介入する営為》であったが、「人間」を根拠とすることで経験の外にある世界を神の実在を不問としつつ語り理解することが可能になった。この「人間」は《経験的な事象から経験を超えて経験を規定する条件を論理的に導出しうる人間の理性的な思考》をもつ。この理屈からすれば、《人間だれしもが備える理性的な思考を適切に用いていない》ものたちは、「人間」とは言えない。だからアーレントは、白人の侵略者が植民地においてなした数々の虐殺とホロコーストを区別する。前者は「人間」による非理性的で非文明的な《「私たち(近代人)とは異なる他者」》の虐殺であったが、後者は「人間」による「人間」の虐殺だからこそ特異なのであると。ガインズはデュボイスやプレスビーとともに応える。ふざけるな、と。そして久保は問う。理性というものが西洋近代のローカルなものでしかなかったとして、理性的に文明化されているか否かという尺度からはとうてい同じ人間とは思えない人間たちと共存することはいかにして可能か。
明日の社交に向けて慌てて脛毛の脱色を試みる。奥さんに頼らず頑張ろうと思っていたのだが、けっきょくうまくいかず、脱色は諦めて漉くことにする。なんか漉く道具を出してきてくれてやってくれる。おめかしの準備は前日にばたばたしてやるものではないが、前日にばたばたやるものである。
