『のろし vol.1 なぜ彼らはインターネットで創作活動を続けてきたのか?』が本当に最高の雑誌だった。三人ともそれぞれに良くて、巻末に非常にエモーショナルなライナーノーツを寄稿している夏男さんのホームページから転載された『めぞん一刻』のレビューがとてもよかったので、きょうは『めぞん一刻』を一気読み。これはたしかに名作だった。特に序盤の、「男女関係」のグロテスクさ──「押し倒す」ことがひとつの「常識」として機能してしまっていることや、「のぞき」といった犯罪行為の描き方など、現在の視点からはありえない倫理観──にウウッとなるところも多いのだが、押井守が宮崎駿の言葉として『コミュニケーションは、要らない』という本の中で書いているという「五代が響子さんを押し倒してしまえばすぐ終わる話」という評を鑑みるに、当時の読者を取り巻く「常識」や倫理観がどの程度だったかは察しがつく。そうだとすると、それでも押し倒さなかったというところにこの作品の重心は置かれているはずで、それは押井の宮崎がいうようにモラトリアムの延長によって牧歌的に引き延ばされる停滞した状況の甘ったれた肯定というよりは、他者を他者として尊重するが故の人間関係のシンプルじゃなさの肯定と読んだ方がずっと自然ではないか。押井はちゃんと漫画を読んでないから『ビューティフル・ドリーマー』を撮って怒られるんだ。あれはいい映画だったけれども。話がずれたが『めぞん一刻』は、人間関係の摩擦が不在の居心地いいモラトリアムという押井の批判する状況を肯定するどころか、その安全圏からいかに踏み出し、関係の進展のために摩擦を引き受けるかという話だった。これは夏男さんのレビューによる先入観かというとそんなことはなく、そもそも響子さんの未亡人としてのアイデンティティの描き方からして明示されているではないか。これは五代という青年の成熟──自分本位な若さからの脱却──だけでなく、響子さんという青年の成熟──弔いという空白期間からの脱却──を描いた漫画でもあるのだから。
響子さんは今の僕が読むと「小娘」で、そういう意味では五代にとっての八神くらいの距離感だろうか。可愛らしいし、少年期に出会っていたら初恋を奪われていたかもしれない。でもいま感じるこの可愛らしさはたぶん一の瀬さんの目線に近い。そういう意味で名作と言われる作品を大人になってから読むことの寂しさも感じる。ちなみに僕の非実在人物への初恋は恐山アンナです。思えばこのころから「みんな殺す」みたいな荒んだ目の人が、その殺気に怯まず踏み込んできてくれた存在との出会いによってだんだんと自分も人間扱いされるに値する存在なんだということを受け入れていって、最終的には屈託なく甘ったれになるという話がとても好きだ。いまだと『3月のライオン』の零君とかがそういう系譜のトップを走っているのだろうか。みんなフクフクになってほしい。
