『〈聖なる〉医療』の第一部を読み終えて、集中力がわやになってしまったので雑誌に切り替えようと思う。『のろし』か『Tired Of 2021 no.1 特集:ちゃんとしなくていい路上。』 かと悩んで昨日は前者をすこし読んでいたので、今日は後者を試してみると面白くってそのまま最後まで読み通してしまった。子供時代を思い出すような読書だった。思い出したのは小学校に上がるとO君という拳法使いのお父さんを持つ荒くれ者とつるんででかい顔をしだすT君のことで、僕とT君は幼稚園も一緒だった。僕とT君が園児の時は仲が良かったのかは覚えていないが、僕はその頃からあんまり好きじゃなかったような気がする。わからない。後から振り返ると小学校のころのよくない印象を被せてしまうのかもしれない。とにかく一緒に遊んでいて、家の近所は傾斜の強めの坂になっていて、もとは丘だったところをところどころ切り崩すように均したていったのだろうか。坂の上にある団地と、その横の駐車場とは高低差が3メートルくらいあって、駐車場側からは壁のように見えるなんていうんだああいうの、土手? の上を歩いてみようということになった。右手には団地の裏庭のようなスペースへの侵入を防ぐフェンスがあって、左手はちょっとした崖だ。冒険気分でうきうきそこを歩いていくのが僕は好きだった。普段は一人で行くのだがその日はT君がいて、たぶん園児の頃からT君はヤンチャだったと思うのだがこの時はいまにも泣き出しそうな声で、危ねえよお、怒られるよお、やめようよお、と言ったのだった。まだ崖の上のほんの2メートルくらいしか探検できていない。道幅も大人には厳しいとはいえまだ身長が100センチあるかないかの僕らには十分すぎるほどある。それをなんだ、情けない。自分の中のマチズモというか、ふだん強気で振る舞っているやつでも二人きりだとこんなもんなのか、という意地の悪い見下したような気持ちがその時湧いたように記憶している。小学校に上がって悪ガキの主要メンバーとなっていく彼にでかい顔されても、その時のバカにした気持ちがずっとあって、可愛く見えた。みんなの目のあるところでは粋がってるけど、近所を冒険してみる気概もない、こいつはその程度のやつだ、という優越感。思えば僕は教室内の破ってもいいようなルールをこれ見よがしに破ることよりも、みんなで行儀よく共有したほうがいいような場では静かにして、一人で路上の不文律をひっそり破ってみては自分の感覚を広げていくのを楽しむようなところがずっとある。教室でみんなの前で、ではなく、路上で一人で、というあり方にずっと矜持のようなものがあるのは、この時の記憶がこういうふうに些細なきっかけで何度も反復されていることからも納得できそうに思える。
この記憶とセットでいつも思い出すのが、六年生の時T君がO君と一緒にたぶん今の僕よりも若い担任の先生に、おいボッキって知ってるか、とニヤニヤしながら問いかけている場面だ。担任は、ふくれっつらで、じゃあお前らはなんでボッキするのかしってんのかよ、と応戦していて──いま思うとこれもだいぶ大人気ない──それに二人は、そんなの知ってるぜ、と自信満々で、おしっこをがまんしすぎるとなるんだぜ、と応えていた。衛生洋画劇場でかかる渋めの洋画や、母がTSUTAYAで借りた映画をなんでもかんでも一緒に見ていた当時の僕は、セックスというもののありようを薄々察していて、だからこの二人のボッキ観に出くわして、か、可愛い……ッと衝撃を受けたものだった。教室一の不良がむっつりしたませがきの僕よりも初心であることが面白かった。ワルさや幼さというのも相対的なものであるのだなあ、とその時はもちろんこのようには言語化されていないが思ったはずで、時や場所によって同じ個人のありようというのは随分と変わる、ということを僕はT君の観察で学んだところがある。自分の置かれた環境下で知らず知らずのうちに培っていく偏った観念を疑うことなしに、自分の環世界と世界とを同一視して前者のルールに基づいた遵守や逸脱に満足している状態を抜け出る可能性はありえない。僕は僕の思うようにしか運用されていない世界なんて面白くないし、だからこそ僕の領分をこっそり各所に侵入させてみることが楽しくて仕方がない。だいたいのことは思い通りにいかないのではない、そもそも思いも寄らないのだ。