2021.06.04(2-p.53)

保坂和志の本を読みながら、小学生のころからこうして読んできて親の次に人格形成に影響を及ぼしたであろうこの小説家から受け取ったものとは何だろうかと考えていたのだけど、おそらくそれは不遜な怠惰さではないだろうか。すべての人間は卑屈よりも不遜であってほしい。僕自身だいぶ思い上がってるし、誰かが自惚れているのを見るのは楽しい。それはいつかしっぺ返しを食うぞという意地悪な楽しさではなくて、いいねえ! という素直な喜びだ。意地悪も好きだが、意地悪は性行為と同じようなもので、大っぴらにやるものではないから親しい中でこっそりするのがいい。話が逸れたというかそもそも何の話なんだか分からないが、ともかくみんな──ほんとうに文字通りに「みんな」だ──もっともっと太々しくなったほうがいい、というのが今日ふと湧いてきた考えだった。

これまでは不遜さにはなんの根拠もないと自分でも思っていたが、今となっては僕は三〇代正社員異性愛者の男性。俺に足りないのは筋肉だけ。これで筋肉まであったら居るだけで弱きをくじく無自覚権力人間のできあがりだ。自身の置かれた特権的立場に無自覚でいたくないが、これまで僕がそういうふうに言えたのは、フィジカルの弱さゆえに、文字通り体感として弱さの側にあることの意味を知るからだが、だからこそそれもなくなってしまったとき、僕はどこまで鈍感になれてしまうかが恐ろしくもある。不遜ではありたいが、外からの評価やはじめからある構造的偏りを根拠とした不遜さなど不遜さの風上にも置けない。人はなんの根拠もなく不遜であれる、ということ。なにも目的がなくてもなにも生産しなくとも、ただぼけーっと海なんかを眺めていればそれでもうなんの問題もなく人間は大丈夫なのだと言い切ること。僕が日記を書いたり亀を眺めたりしながらずっとやっているのはそれだけのことなのかもしれない。そういうことを思い出せて気分がいい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。