プルースト、保坂和志、ピンチョン。考えうる限りこれ以上はないというくらい楽しい布陣。『楽しみと日々』はいまのところプルーストも二〇代は若かったんだなというくらいの感じだけれど、それでもこのころの若さをずっと覚えているから後年それを相対化した文章をああも長々と書けたのかもしれない。でもやっぱりプルーストは長くないとあんまり響きようがないというか、こちらがその文体にチューニングしようとしている間に終わってしまうか、そもそもチューニングがあんまりいらない負荷の少ない文章かどちらかで、読む側に普段と違うモードを強いるようなものに触れたくて小説を読むのだとするといま僕はピンチョンの過剰さがちょうどいいらしく、というか今はピンチョンに体調を合わせているからプルーストは少し物足りなくなるのかもしれない。プルーストも長ければそれだけで過剰さが際立ち、『百年の孤独』と併読しても耐えうる。短編と長編はどうしても長編が重量だけで押し勝ってしまう。しかし短編でも読むのが非常にかったるいというか、通読するとどっと疲れるものもあるのだから、『楽しみと日々』もどこかでそういういい短編が見つかるかもしれない。とにかく小説は楽しいという気分を保坂和志の小説論やエッセイを挟むことによってつねにフレッシュに保つことができるので、無限に読んでいられる。
ブライアン・イーノ(草)は土が乾き切ったら水やりをするようにと教えてもらったが、手汗のせいでずっと湿っている僕の手には土はいつだって湿っているように思える。つまり触診ではよくわからなくて、目視でそろそろかもと先日初めて水やりをしたらみるみる元気になって、緑の具合や葉の瑞々しさが明らかに違う。植物というのも生きていて、動いているのだ、というのがよくわかって、そうなると毎日ある程度の注意を払うようになる。すると日によって機嫌とまではいかないが状態の機微があるような気がしてくるから面白い。トーニョはわかりやすく動くし、晴れると気持ちよさそうに甲羅干しをするが、体が甲羅に覆われているので体重の増減がわかりにくい。どんどん大きくなってはいるのだが、中身までちゃんと育っているかどうかは確認のしようがない。亀より草の方が毎日の代謝の具合はよくわかるというのが植物はなんだかんだで静物のように考えてしまう僕にとってはすでに面白い。ほんとうに文字通りの意味で植物も動いている。これは知識としてわかった気でいてもやはりこうして見てみないことにはわからない。