昨晩は南森町さんのDiscord のサーバーで催された「2021年うろ覚えで話すHiGH&LOW」という名の雑談会に参加した。当日に突発的に提起されたもので、そうやって「今晩どう?」と軽いノリで始まるおしゃべりの約束はずいぶん久しぶりで、とても楽しかった。はしゃいで喋りすぎてしまったかもしれない。音声だけだと間合いが取りづらく、ついつい喋り続けてしまう。すこし反省。終盤はマイクをミュートにして洗濯の取り込みなんかをしていたり、とうとう眠くなって離脱してしまったが、ずいぶん脱線してなぜだか海外アニメや翻訳の話になっていたのも面白かった。
それで朝はのんびり起きて、奥さんがローテクハウスの紹介動画を教えてくれて、そのツイートを楽しく眺めていた。こういうの、ずっと見てたいな、と思う。それでNetflix で「ハウス」で雑に検索してサジェストを遡りながら「Cabins in the Wild with Dick Strawbridge」という番組を見つけてこれだ! と思って最初のエピソードを見ると、これだ!! となった。今こういうのが見たかった。一人でドラゴンの眼の小屋を作っちゃうおじさんがもう楽しくてたまらないように笑うのが嬉しくて、あはは、と笑い声を上げながら見ていた。工房がすきだな、と思う。木材の匂いを嗅ぎたい。
その勢いで漫然とタイムラインを眺めていると
自分が社会に出て驚いたこととして、「自信」というものが異常に重要視されるというのがあって、自信なんて普通に議論の正誤が判断できる人間からすれば何の価値も無いと思うのだけれども、自信を持って喋ると信用されるし、自信無さげな人は気持ち悪がられるし、何なんだこれはと思った記憶がある。
@mr_bay_area https://twitter.com/mr_bay_area/status/1421231973171798017?s=20
というのが目に入って、触発されたようで以下のようなことをメモがわりにツイートした。
僕は自信ありげに振る舞うこともできなくはなく、しかしもちろんそこにまったく根拠がないことも誰よりもわかっているので、こんなことで信頼とかが勝ち取れちゃうのちょろいけど怖いなというのはとても思う。適当なこと言うが、ベンチャーとかはいかに聞いた側がうきうきするような大言壮語をぶちあげるかでじっさい資金調達とかをするのだろうし、株価だって要はなんか自信ありそうとかそういうので動いている感じもする。実態ではなくガワで動くカネがほとんどだというのは、そもそも現状の資本主義というフィクションを駆動するのは実際行われていることの効果とかではなくて、自信満々だったり夢いっぱいだったり、そういう「なんかやれそう」みたいな「感じ」だからなのだろうな、と思っている。
資本主義の論理が政治のあり方にまで適用されてるとき、起こっているのは経済合理性による冷徹な判断ですらなく、この「感じ」による運用であって、実際まったく合理的ではない。だから資本主義の論理と先に書いたけどそもそも論理立っていない。あらゆる意思決定に筋立ったロジックすら見当たらないのはそのためなのかもしれない。そして「感じ」で運用されるような組織が、無数の議論にすらならない断絶を生むというのは当然のことで、感じ方は人それぞれだからだ。それぞれ別の体や気質や環境を持った個々人のあいだの、だいたいにおいて衝突する利害の調停を、各々の体な気質や環境によって形成される「感じ」を根拠にやろうとするのはほんと最悪で、そういう調停不可能な「感じ」から離れて誰もが納得できる筋道を立てていくためにこそ理屈というのはあるのにな。
理性だとか数値だとかを、それこそ冷徹な資本主義社会の不平等の象徴のように捉えたがる感情が少なからず存在するのだと思う。おのおのの感情というのは理屈立っていないしデータさえ示せば収まるものでもないのもわかる。それはそれでケアが必要だろうけれど、そもそも感情は個別対応しかありえない。だから社会と言われるような場所で多くの人たちの利害の調停を考えるとき、「感じ」を根拠に進めていくのは本当にやめたほうがよくて、各々の感受性をいちど相対化した上で、感情的なバイアスを極力排したロジックでもって運用していくほうがまだ随分ましなはずなのだ。
ジェンダーや人種の議論の際に当事者としての論理というようなことがよく言われるけれども、これはこれまで「感情的なバイアスを極力排したロジック」というのが、ヘテロ男性(健康体)の感情的バイアスがごりごりにかかったロジックであったことを暴いているだけであって、当事者にとっての「感じ」を根拠に、当事者にとって都合のいい屁理屈をでっち上げているわけではまったくない。むしろ既存のバイアスごりごりロジックでもって現行のあり方を保守しようとすることのほうがかなり「感じ」の側の振る舞いなのだ。このように、近年「当事者」という言葉を使って行われている仕事の目指すところは、ロジックをより広範に適用可能な純度の高いものにすることなのではないかなと勝手に考えているのだけど、このあたりはまだかなり勉強不足なので僕もちゃんとしないといけない。
以上がきょうのツイートのコピペで、こうしてただ思いついたままに雑にツイートするだけでふだんの日記くらいの量が書ける。というか、ふだんは一気の下書きにつどNotion に書きつけていたものをダダ漏れさせているだけなので量がだいたいふだんの日記と等しくなるのは当然のようなのだけど、そこにこうしてさらに書き足していくのだから量は増えるのかもしれない。しかし結局ここから雑にツイートした考えをより深めていこうとか進めていこうとかならなければこの書き方はそこまで大した成果をあげないような気もする。と言いつつ、特にそういう方向に無理やり描く気持ちを持っていくこともせず漫然と書いている。書く時間の細切れさをツイートの形で可視化しただけのつもりでも、発表というのは些細なものであっても大きいようで、ツイートした時点で書く時間の細切れが強調されて書く意識のほうもすっぱりと切断されるようなのだ。だから上のツイート群で考えていたことを日記の形でさらに進めるというようなことはできなさそう。そもそもふだんの日記だってこの程度の雑な思いつきしか書いていない。
夜はたこ焼きを焼いて食べた。たこ焼きは囲むだけでちょっとしたパーティになるからすごい。途中でチーズやキムチを入れてみたり、空いたスペースにオリーブオイルと塩とニンニクとタコを放り込んでアヒージョにしたり、なんだかかなり浮かれた気持ちになれる。そうやって21時からの読書会のギリギリまでほおばって、結局中座させてもらい、5分で机やPC の支度を始める。ちょうどくらいの時間にようやく体制が整ったと思いほっとメールのアーカイブをチェックすると、Zoom へのリンクが見当たらない。購入さえすればいいのではなくGoogleフォームでの事前申請が必要だったのだ。ガーン、という表象の説得力をこんなに感じたことはなかった。もう開始している時刻だった。ダメ元でフォームより申請をして、ツイートを確認するともちろん締め切られており、ほとんど泣きべそをかきながらツイート、しばらく呆然とし、toi books のアカウントから磯上さんにDM も送ってみて、たこ焼きやっぱりあと三つちょうだい、とリビングに戻り、するとすぐさま磯上さんから返信をいただき、駆け込めることに。申し訳ないやら嬉しいやら。焦っていた気持ちの波立ちはすぐには落ち着かず、最初の自己紹介のあたりはかなりへどもどしたが、感想として言いたかったことはちゃんと言えたので自分で自分が頼もしかった。いいこと言うじゃーん、というような。途中から参加された滝口さんに、fuzkue でもお会いしましたよね、と言われたとき、そんなことあったっけな、と思ったし返答もあいまいに済ませてしまったけれど、その直後、それまでなぜだかすっかり忘れていたのだが、『アイオワ日記』の会話のない読書会に参加したこと、そのとき一日店員としてしれっと接客を行っていた滝口さんのそつない身のこなしなんかを鮮やかに思い出して、ああ、そうだ、そんなこともあった、すごいな、そんな素敵なことを、今の今までほんとうにまったく思い出せていなかった。僕は滝口さんの小説の、自分のことより友達のことを面白がったり考えたりしているところが好きで、それは自分よりも身の回りの世界の方がずっと広いに決まってるというような態度で、そういう他者への開かれかたがほんとうに音楽みたいだなと思うのだ。小説家というよりも噺家やミュージシャンのようなスタンスで他者へと開かれているというか。それは優しさでもあるしどこか乱暴な怖さもあって、広い意味での「芸人」の雰囲気がある。そんな小説を囲んでのおしゃべりが人懐こくならないわけもなく、お話しされていたすべてのお話が面白く、やや滑稽なほど熱があって、なんだか大事そうな話とどうでもよさそうな話が等しく真剣にやりとりされていて、嬉しいなあ、楽しいなあ、と思いながら話したり聴いたりしているとあっという間に23時半近くて、あっという間に終わってしまった。終わってみるとどっと疲れるものだった。もう眠い。今日はもう十分書いたしいいかと思いつつ、この段落は終わってから打ち上げの代わりのような気持ちで勢いに任せて書いている。あ、日付越した。
