2021.08.02(2-p.150)

海野凧さんが「柿内さんのZoomの背景に細い紙を丸めた輪っかを連続させて作るあの誕生日会の飾り的なものが見えて、自分関係ないし誕生日でもなんでもないのだけれど、何故か浮かれた気持ちになってしまった。」とツイートしていて、あっ恥ず、と思う。三年前この家に引っ越してすぐに誰かの誕生日があってそのときに作って飾ってそのままになっている。あまりにずっとあるからもはや視界に入っても意識にのぼることもなく、こうやって指摘されないと変わった事態であることを認識できない。慣れというのはすごいものなのだ。そのまま凧さんときのうの読書会の振り返りのようなやりとりがあって楽しかった。書き手の対象との距離を釣りや凧揚げになぞらえたお話が僕もいちばん面白くて、あれよかったよなあ、と改めて頷く。

昨晩からのFGO の周年祭では、祭らしく石を蕩尽した。選べる星五は玉藻の前。石で呼べたのは既存だとラーマ、鈴鹿、茨木、パーシヴァル、武則天。新規はニトちゃん、キャスギル、パールヴァティー、コヤンスカヤ。福袋でライネス、ぐっちゃん。コヤンスカヤ欲しさにここまで引いた。お祭りだからね。

『通天閣』はきょうは二つの補論。いよいよ5章を残すのみとなってしまった。ずっと面白いからもっと読みたい。これは本当にいい本だなあと思う。でもこれが終わっても次は『書物としての新訳聖書』がある。よかった。本が読めそうにない時間は最近は『Gのレコンギスタ』を観ている。初めてのガンダム。言語感覚がクセになる。な、なんじゃとて!

きょう公開のポッドキャストは全身全霊でお便りへの応答を試みた回で、喋りながらどんどん手が震え顔が青ざめていく僕を見て奥さんはだいぶ心配した。そんな回だった。昨晩の読書会でも話題になった書き手の暴力性だとか、そもそも個人が当然持っている加害可能性だとか、そういうものとどう付き合っていくか、みたいなことはずっとモヤモヤしていて、答えのないままに今できる応答をしたつもりだ。だからこそ、ここからまた別の対話に繋がっていったらいいな、と思っている。わからない、こういう虫のいい考えもまた一つの暴力ではあるだろう。他者をかけがえのない一個人として捉え敬意をもって向き合うことと、誤解されたり傷つけたりすることに対して潔癖になることは、まったく別のことだしなんなら正反対だ。そう信じているからこそ、時おり他者の側への踏み越えの瞬間が訪れる。しかしそれは今だったろうか。それはまったく確信がないままだし、いつまでもそうだろう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。