2021.09.01(2-p.150)

『MOMENT』最新号を読み終える。「City as a home」ってほんといいテーマだな、と思いながら読む。街頭での散歩を誕生日会にするアイデアとか、この状況の中でも愉快さや穏やかさを忘れない工夫に救われる気持ちが確かにあった。家だけでなく、近所をもhome にすること。久しぶりに「ZINE アカミミ」のことを考えていたら、ちょうど今日このZINE を見つけてくださった方のツイートがあって、嬉しくなる。何を読んでもいまいち響き切らないんだよな、というもどかしさがあるとき丁寧な雑誌が効く。どんどん読みたくなってきて、どういう回路だかわからないが前にロカンタンで買っておいた『現代思想からの動物論』を始める。三〇ページ読むのに何時間もかかって、これこれ、こういう負荷がかかるの久しぶりだなあ! とうきうきする。全く自分にない発想と理路で、そこにしがみつきつつこちらの思考が変容していく興奮。このしんどさや面倒臭さこそが楽しい。難しい顔しながら読んでいる。難しい顔しながら、格闘するような気持ちで読む、それも楽しいと言うことだ。

「文學界」の書影はAmazon がいちばん早く、だいたい前月の末か当月頭ごろに出るというのは事前に調べていたから、昨日から三時間に一回くらいAmazon のページをリロードしては確認していたのだけれど、午後の早いタイミングで出て、かなり気持ちが昂った。さっそく実家のグループLINE に自慢すると、弟が「主役じゃん」「少年ジャンプで言うところのワンピースじゃん」と言ってくれる。「僕は天狗になって横柄な態度で生きていこうと思います」と送ると、母は「早熟で賢い子だったのに横柄な大人になってしまうのかー」とおざなりに嘆いてみせた。だから夜に上のツイートをしたころにはとっくにのけぞり終わっていて、ちょうどいい頃合いを見計らっての投稿だったわけだ。驚いただろうか。Twitter がいつでもリアルでリアルタイムだと思わない方がいいし、この日記もどこまで本当のことが書いてあるかなんて誰にもわからない。僕だって一ヶ月前の日記は他人事のように読むのだから。僕は僕だって簡単に騙せる。それはともかく、ツイートに対して多くの人がなにかしらのリアクションをしてくれて、それがなんだか嬉しい。もちろん僕は大はしゃぎだが、僕のことを喜んでくれる人がいるというのは、なんだかちょっとすごいことだと思うのだ。人は人の喜びを喜ぶことができる。これが希望でなくてなんだろう。

Ryotaさんの「もう特集名がほぼプルーストを読む生活だものな」というツイートで、特集名がほぼ『プルーストを読む生活』なことに気がついた。日々とかもうほぼ生活じゃん。もはや原案を名乗ってもいいかもしれない。調子乗っちゃうなー。これは、ほんとうに天狗になって横柄な大人になってしまうかもしれない。嬉しいことが起こると、僕のどこか一部分が死んだような感覚にいつもなる。どうせ誰も自分のことなんて気にかけてない、という、特にいじけているわけでもないフラットな自覚が薄まってしまうというか、なんだか注目されて、社会に居場所を得た気になることで、孤独を感受する機能が停止していくような感じがあるのだ。それは少年期からずっと傍にあった所在のなさ、心細さ、はぐれている感じが、そっと奪い取られていくようなところがあって、僕は自分からそういったものが失われてしまったら自分のことを好きでいられる自信がない。だから僕は慌てて、いやいや、別に僕がすごいわけじゃ全くないし、別に僕が注目されてるわけでもない、僕のことを我が事のように喜んでくれるその人たちの優しさや強さや気遣いがなによりも素晴らしく、その素晴らしさにちゃんと喜べる、それで十分なのだ。他人の善意を都合よく食い散らかしてくだらない自尊心を醜く肥大化させても仕方がない。というか本当はこんな言い聞かせるようなことをするまでもなく、「文學界」の対談は僕としてはすでに終わったことなので、今現在の僕がなにか誇らしい制作の最中なわけでもないから、実感としてはどうも調子に乗り切れないところがある。浮かれてはいるのだけれど。もっと勘違いするほど調子に乗ってみたい。連載とかラジオ出演とかアニメ化とか、まだまだ色々やってみたいし、そもそもいつまでも『プルーストを読む生活』をこすり倒してないで新しいものを作っていたい。

明日は休日だから眼鏡を新調したい。なんかおめでたいやつ。「文學界」のカバーデビュー祝いだ! ウヒョーイ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。