快復。
朝はおそるおそるだったけれどがっつりしたものが食べたくて、じゃがバタを食べた。その後の便通は固形物としてのあり方をちゃんと思い出してくれたらしい。嬉しい。もう水下痢も熱もない。やったぞ!
それでしっかり労働して、合間に原稿も進める。さらには朝からふかした芋を食べたらボンディのカレーが食べたくなっちゃった、という奥さんの言葉に乗せられて、「ボンディ 自作」で検索するとレシピが出てくる。スーパーで材料を買い込んで、桃缶やバナナや林檎をミキサーにかけていく。奥さんは奥さんで横で野菜を煮込み、鶏をソテーし大忙しだ。キッチンバイトを思い出すような気持ちのいい分業で、なるほど欧風カレーというのは工数をバラして合体させる発想だから大人数でのシフトが組みやすいのだな、などと感心する。奥さんの工数の方が多いようにも思ったが、あなたの快気祝い、といつの間にか名目が決まっていてそういうことなら甘えよう。四人前のはずだったが明らかにその倍は出来上がって、昼に食べて、多分こんな味だった気もする、美味しい美味しい、と話しながらも二人はこれはもう夕飯もカレーだなと思っていた。
ポイエティークRADIO の最新回にさっそく反応があってとても嬉しい。もはやお馴染みのRyota さんとTwitter上でやりとりしながら改めて心霊の面白さを思う。『怪異の表象空間』の整理では近世までの神経の見せる虚構としての「幽霊」から、近代科学の対象としての「心霊」へ、という移行があるとしていて、心霊は明治後期のある時点では大真面目に科学的検証が可能な対象である。だから心霊写真はあるけど、幽霊写真はない。近代とは霊的なものまでも科学的な解明の目的と据えた時代だと言える。「人がどのように世界を認識しているか」「どのような信念に基づいて暮らしているか」を考えていくと、怪異など根源的な恐怖に接続されていく。そういう近代以前の思索は健全なのかもしれない。近代移行、俗物的な暴力だけが恐怖の対象となっていくのはかなり貧しくて、今こそ心霊が待望されるというか、合理性に回収しきれない余剰や異物を、包摂するでも理解するでもないやりかたで、そこにあるがままにするための技術や制度や方法が求められている気がしてならない。
退勤後に原稿を仕上げて送付。
実家に電話をかけて実話怪談の面白さをプレゼンし、なにかいい話はないかと訊いてみる。それから夕食を食べながら実話怪談の面白さを奥さんにプレゼンし、食後三柴さんのツイキャスを冒頭だけ聴いてほらやっぱり実話怪談って面白いよね、ということで自分でもやってみたくなり、三柴さんの「団子」と朱雀門出の「心の神」を実演してみる。奥さんはピアノの発表会を聞いてる気分になっちゃうね、とにこにこしている。実際僕も奥さん相手だとどうしてもおどけてしまって、喉の使い方からして落語の真似事みたいになってしまう。やっぱりタモリみたいに炒飯の作り方から始めてみるのがいいんじゃないの、とアドバイスをもらう。怪談、じっさいにやってみるまでは楽勝だと思っていたが、これは実に技術を要する話芸だ。自分の家のなかでエロい感じになるのが難しいのと同じような難しさがあるのではないか、と奥さんは言うが、至言ではなかろうか。怪談が巧いやつはモテるだろう。知らんけど。異世界なんてものじゃなくていい、日常会話から、ほんの少しズレた位相を差し出すように、特日常のようなものを語り、象る。怪談というのはそういう行為なのかもしれない。さらっとそういうムードを作り出せるというのはやはり色気に似たなにものかだろう。
早速原稿OKの返信がある。できうる限り早めの納品を心がけているけれど、返信もこうして早いととても嬉しい気持ちになる。ちゃんとこちらの速さが活かされているというか、役に立っている感じがあるからだろうか。有用さなんていらんよ、というようなことを書きながら、自分の書いたものがなにものかになるのであれば嬉しいのだから現金なものだ。
