2022.01.22

目覚ましに『プリティーリズム』を見る。

したたるような赤身肉とフルーツサンドを求めて町へ。

いきなりステーキに初めて入った。奥さんは以前一回来たことがある。この店舗がなのか、全国的にそうなのかはわからないけれど、とにかく店員さんの感じが良い。接客がなんだかエンターテイメントじみている。なんとなくコールドストーンを思い出す。屈強な男たちが歌いながら肉を焼く店というのは楽しそうだ。きっとどこかに存在するだろう。いままさに食べたい感じの肉で、たいへん満足した。僕はかなりにこにこだったらしく、奥さんは慈しむようにこちらを見ていた。

それからフルーツサンドを買って、帰る。すでにいい一日で満足。

帰って明日の録音に向けて『ウォーム・ボディーズ』を観る。それからフルーツサンドを頬張りながらプリズムの煌めきを浴びる。なるほど確かにトリップ体験だった。語りの大胆な省略と速度によるアクロバティックな接続は実にポストモダン的だった。破綻ギリギリのところで、個々の表象自体に折り込まれたコンテクストを鑑賞者が勝手に読み取ることで成立する場。

『公共性』を読み終えたことだし、と、昨日から『ゲンロン12』の「訂正可能性の哲学」に取り掛かっていて、これは『ゲンロン0』の補論にあたるらしい。僕は近年の東浩紀の仕事は、まさしく素人の哲学だと思っていて、それは揶揄でもなんでもなく、最大限の賛辞だ。現実から遊離しない生活感覚から提起される哲学であるということだ。僕が『会社員の哲学』で達成したい境地の一つがここにはある。解放性への無限後退でも、固着した自閉でもなく、ある程度の閉鎖性を受け入れつつ、つねに変容への余地を残すこと、つまりは「中途半端」であること。それは塩梅を探るということだ。すべての個別具体的な事例は程度問題なのだと割り切ることだ。東浩紀こそ「程度」の哲学を試みていると思っていて──それは初期の「否定神学」批判から一貫しているようにも感じる──、青木さんとの話の中ではこれまで東浩紀に言及してこなかったけれど、青木さんはどう読むんだろうか。

現代社会はあまりに複雑である。かつてのマルクス主義のような大きな正義はもはや存在しない。ネットには専門家が溢れ、なにが正しくてなにがまちがっているのか、調べれば調べるほどわからなくなる。あらゆる問題について「当事者」がいるが、人間の時間にはかぎりがある。専門家の知見も当事者の声もすべてを追うことはとてもできない。それゆえいま、多くの人々は、すべてを単純な図式──それは保守の陰謀論のこともあればリベラルの正義感のこともある──で切り取るか、あるいはすべてに無関心になるか、どちらかの状態に陥っているように思われる。
それゆえぼくはこの時代においては、逆に、なにかについて中途半端にコミットすることの価値を積極的に肯定するべきだと考えている。そのような肯定がなければ、現代人はまともに政治と向きあうことができない。ぼくたちはどうせすべての問題に中途半端にしか関わることができないのだから、その条件を排除しない社会思想をきちんと立ち上げなければならないのだ。

東浩紀「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」『ゲンロン12』(ゲンロン)p.76-77

主義主張を訂正不可能なものとして保持するという「保守」的な思考停止に対する抵抗は、ものごとの可変性を受け入れたうえで、変容を前提としつつも損なわれない共同性のようなものを肯定することから始まるのかもしれない。開きすぎても、閉じすぎてもいけない。現実として、僕たちは閉じていつつ開いているし、開いているつもりで閉じてもいる。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。