2021.01.21(2-p.16)

ネロの孤独は気の毒なほどで、その治世の将来に不安を投げかけていた。芸術が生存理由の一つであったギリシア化した東洋では、あえて自分に彼の国家における最高の役割を与えるような君主はいなかったが、芸術が外に表われた富の印にすぎないローマでは、数ある野心のうちで最も明白な野心を認めてやるために君主が存在した。天性の芸術家である皇帝とその場限りの芸術家である元老院議員との間の亀裂は刃傷沙汰を引き起こす恐れがあった。しっかりと根を下ろしたローマの伝統からすれば、見識ある趣味が芸術を下等で付随的なものと見なす限り、ネロは悪趣味の怪物だった。

ユベール・モンテイエ『ネロポリス』羽林泰訳(中央公論社)下巻 p.88

『ネロポリス』は僕は『サラムボー』の後継として、小島信夫の相手を努めてもらいつつちびちび進めているが、下巻になってようやくネロが前面に出てくる。僕はやはりアマチュア芸術家としてのネロにどうしても惹かれるというか、ネロに限らずアマチュア芸術家に惹かれるようだった。『クラシック音楽とアマチュア』や『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』を思い出す。

『静温な日々』はついに終わりを迎え、分量としては中編といってもいいこの一冊は、しかしすぐに文脈どころか文意すら汲み取れなくなって行きつ戻りつ楽しく迷子になっていたら日々が過ぎていった。それでいきおい『ネロポリス』が進み、今日だけで二〇〇ページとか読んでしまう。ちょっと気分を変えたいが、小説を並走させるのはやはり難しいから、なんかほかのものを、アーレントでもいいがアーレントは電車なので、では、というところでマルクスを手に取った。日記の記録によるとじつに11月の中旬以来のマルクスだ。僕の凄いところは、それだけ空いてもまだ読んでいると思い込んでいるところで、じっさい読み出すと面白く読むのだから流石だなあと思う。

きょうはマルクスは労働力商人としての賃労働者に扮して、資本家にこのように売り込みを行う。ぼくは労働力という商品を資本家である君に売っている。お互い商売なんですから、もっとフェアにいきましょうぜ。

ぼくがきみに売った商品は、その使用が価値を創造し、しかもそれ自身が値するよりも大きい価値を創造するということによって、ほかの商品庶民とは区別される。これが、きみがそれを買った理由だった。きみのほうで資本の価値増殖として現われるものは、ぼくのほうでは労働力の余分な支出だ。きみもぼくも、市場では、ただ一つの法則、商品交換の法則しか知らない。そして、商品の消費は、それを手放す売り手のすることではなく、それを手に入れる買い手のすることである。だから、ぼくの一日の労働力の使用はきみのものだ。しかし、ぼくの労働力の毎日の販売価格によって、ぼくは毎日労働力を再生産し、したがって繰り返しそれを売ることができなければならない。年齢などによる自然的な損耗は別として、ぼくは明日も今日と同じに正常な状態にある力と健康と元気とで労働することができなければならない。きみは、いつもぼくに向かって「倹約」と「節制」との福音を説いている。よろしい! ぼくは、分別のある倹約な亭主のように、ぼくの唯一の財産、労働力を倹約し、そのばかげた浪費はいっさいやめることにしよう。ぼくは、毎日、ぼくの労働力を、ただその正常な持続と健全な発達とにさしつかえないだけ流動させ、運動に、労働に、転換することにしよう。労働日の法外な延長によって、きみは一日のうちに、ぼくが三日かかって回復できるよりも大きい量のぼくの労働力を流動させることもできる。こうしてきみが労働として得るだけのものを、ぼくは労働実体で失うのだ。ぼくの労働力の利用とその強奪とはまったく別のことだ。平均労働者が合理的な労働基準のもとで生きて行くことのできる平均期間が三〇年だとすれば、きみが毎日ぼくに支払うぼくの労働力の価値は、その全価値の1/365×30 すなわち1/10950 である。だが、もしきみがそれを10年で消費するならば、きみはぼくに毎日その全価値の1/3650 の代わりに1/10950 を、つまりその日価値のたった1/3を支払うだけであり、したがって毎日ぼくからぼくの商品の価値の2/3を盗むのである。きみは、三日分の労働力を消費するのに、ぼくには一日分を支払うのだ。これは、われわれの契約にも商品交換の法則にも反している。そこで、ぼくは正常な長さの労働日を要求する、しかもきみの同情に訴えることなくそれを要求する、というのは、商売には人情はないのだから。きみは、模範市民で、たぶん動物虐待防止協会の会員で、そのうえ聖者の聞こえさえ高いかも知れない。しかし、ぼくにたいしてきみが代表している物には、胸のなかに鼓動する心臓がない。そこで打っているように思われるのは、ぼく自身の心臓の鼓動なのだ。ぼくは標準労働日を要求する。なぜならば、ほかの売り手がみなやるように、ぼくも自分の商品の価値を要求するからだ。

マルクス『資本論(2)』岡崎次郎訳(国民文庫) p.13-15

こんなに間が空いていても、最初の頃に苦労したマルクスのというか岡崎のマルクスの文体へのチューニングはちゃんと難なく合うようで、読めば読めた。また思い出した頃に読もう。

夜は松井さんと中村さんと録音を行った。朝から寝覚めも悪く、節々が寒さで強張っていて、頭がぼうっとしていたので心配だったのだけど、話し出すととても楽しいおしゃべりができて夜になってようやく元気になっていった。中村さんが僕のことを「中庸」と評し、そこにずるさもある、と指摘してくださったのが面白かった。僕の小狡さは僕の書いたものに滲み出ているからすぐバレる。日記の感想は、性格診断や占いをしてもらうようなところがあり、他人の読み方がいっそう知りたくなってくる。とはいえ今回は梱包や装丁の話など、本の内容ではない部分について集中的にお話を訊いた。いい話が満載で、改めてたいへんいい物体ができあがったなあと嬉しくなった。オンライン通話は久しぶりで、終わった後の寂寥感にこんなに寂しかったっけ、と思う。ぶじ音声データが抽出できていることを確認し、アップロードの準備は明日に回す。公開は来週の月曜日。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。