関西から戻ってきてからの6月はあっという間だったな。生活にかまけていたらすぐに過ぎてしまった。今日はベッドが届いたので新寝室に設置をした。二人がかりで組み立てて、ひとつめは50分、ふたつめは30分で組み上がった。みっつめがあったとしたら10分くらいでできただろう。
『ベイブ』を観た。たぶん今週の『セーフセックス』にブタの映画の話が出てきたからだと思う。子供のころに観てなんて面白いんだとびっくりした記憶。大人になってから観ると人類が作り出した映画のなかでいちばん面白いんじゃないかと思える。すべてのシーンが完璧。下手から上手へとパンしながら様々な豚の静物たちがコミカルに動くオープニングからすでに楽しいし、養豚工場のSFを思わせる寒色から一転、丘の麓にある農場のうっとりするような景観への鮮やかな対照。動物ものだからと安易に手付かずの自然を礼賛するわけではなく、屠殺も含め人間の作為が行き渡っている。人間の敷いたルールに誰よりも従順な犬は他の動物を下等種として平然と見下し横暴に振る舞う。そのようにして理不尽な構造を補強し、再生産する。なにかしら役割を果たさなければこの人為的な社会の中では文字通りの「食い物」とされてしまう。だからこそアヒルは必死の思いで雄鶏を模倣し、猫はビューティフルである。過酷な人間社会はしかしどこか抜けていて、野犬や泥棒に溢れた外の世界よりはいくぶんマシであるし、歌うほか能のないネズミたちも居場所を見出しうる余白がある。それは主人の手作りであろうガジェットの数々から醸し出されるものかもしれない。敷地内にはDIY 精神がさりげなく満ち満ちていて、劇中でだんだん洗練されていく半自動で開閉する扉の仕掛けは、祖父が自作した工場や自宅を思い出す。どことなくジェームズ・クロムウェルは祖父に似ている。彼がブタのために「俺に言葉があったなら」と歌い、ブタを励ますために重たい体を跳ねさせてダンスするシーンでは思わず涙が溢れ、観客たちに笑われながらも毅然とした態度でフィールドに向かう様子にとうとう大泣きしてしまった。泣くような映画ではないはずなのだが。
勢いづいて『ベイブ 都会へ行く』も観る。子供心には恐ろしいほどの傑作だったのだが、いま観ると幻覚のような散漫さ。ナラティブの冗長さは前作以上で、猛犬との追いかけっこのシーンや、ガサ入れのシーンは半分の長さで充分だ。こちらはプロデュースや脚本だけでなく監督もジョージ・ミラーだから、『マッド・マックス』要素がはっきりと打ち出されているということかもしれない。行って帰ってくる。それだけのシンプルな筋書きに、なるべくたくさんの運動を詰め込む。非常に楽しい。前作では人間も犬も家父長的な序列がはっきりと打ち出されていたのに対し、今回活躍するマグダ・ズバンスキーのチャーミングさは眩いばかり。歩き姿がいちいちかわいい。メアリー・ステインもいい。すらっと立っているだけで様になる。一作目では偉大な家父の精神を疑い、夫が社会規範から逸脱せんとする様にはらはらと泣き出すほかないほどにまで社会に捉えられ周縁化されていた女たちが元気いっぱいドタバタ喜劇を演じる様は爽快。そう、われわれはほんとうは、よくやる必要さえないのだ。
模様替えの大きな局面を乗り切ったということで今晩は外食にする。前に行って美味しかったお店に行って、お酒もそこそこにたくさん平らげる。おでんは紅生姜天、生麩、もち巾着。もち巾着はリピートで、今回もとろとろ。胡桃と林檎のブルーチーズ和え、ねぎとろ、麻婆豆腐、アジフライ。〆のナポリタンは八角のようなシナモンのようなスパイスが効いていた。雨のなか大きな傘を分け合って楽しく帰る。ほろ酔いで今度は奥さんと吹替で『ベイブ』。一作目はやはり開拓精神の寓話なのだ。だからこそフロンティアなき後の都市生活を続編では描かなくてはならなかったし、そこには父たる存在の居場所はない。三度もベイブを観るとは。素晴らしい一日。