『邪魅の雫』を読んでいると『陰摩羅鬼の瑕』のよさがじわじわわかってくる。『塗仏の宴』にいたってとうとう京極堂の事件がもたらされ、はじまりの語り手である関口はほとんど声を奪われ周縁化してしまうわけだが、『陰摩羅鬼の瑕』はこの関口がふたたび語り手として中心に回帰する事件であったのだ。そのうえで『邪魅の雫』だ。これはそれぞれの章の語り手があまりにも莫迦ばかりだ。お粗末な観念論をふりかざし、肥大化した自己に自閉している。そしてシリーズを通してそんな大莫迦もの代表であった関口は、今作においては語り手の座から退き、益田によって語られる客体として描かれていく。この関口は、自らの愚かさに自覚的である。いやというほどの内省と自己嫌悪の末に、じぶんの思考の駄目なところまではっきりと自覚している。だから、事件の当事者たちの愚かさに一定の共感を示しつつ、その愚かさに与することはない。僕はここに至ってはじめて、京極堂や榎木津や木場がこの猿に酷似しているという陰気な小説家のことを痛罵しつつも世話を焼いてしまうのかわかった気がする。ここに至って、陳腐でバカオロカな凡人代表である関口がこのシリーズにおいて中心に据えられていることの意義が引き立ってくるとは。それにしても大鷹というキャラクターはすごい。不合理な莫迦の内面描写をここまで理屈っぽくやってのける技巧にうなる。
きょうは立川でエーステのマチネ。夏組単独公演。二度目の観劇だ。きのうのBUCK-TICK の余韻で、あまり観劇の構えでもなく、体調もそこまでよくなかったし、内容も既知であるわけだから楽しめるか自信がなかったけれど、とっても楽しかった。素朴にすぎる感想だが、演劇というのは目の前で一生懸命に話したり動いたりしているのを見れるからいい。引き締まっていたり、ムキムキだったり、横隔膜が大きそうだったり、健康な肉体が俊敏に踊ったり、高らかに歌ったりしている。大きな動作で感情を表現し、緻密に組み立てられた動線に沿ってドラマを進行していく。その様子がこんなにも新鮮に見えるのに、かれらはこれをすでに東京公演、神戸公演、そして今回の凱旋公演と数十回と繰り返しているのだ。僕は二度目でもう飽きちゃうかもなと考えていたというのに、膿んだ様子ひとつ見せずに、おなじ物語を反復し、何度でも迷い、決断し、交歓し、泣き、笑う。まるでこんなのはじめてだ、とでもいうように、満面の笑顔で喜んでいる。全身で嬉しくなっている。なんとなく草臥れていた僕は、その様子に打たれてしまった。瑞々しく繰り返されるというのは、なんとすばらしいことだろう。
移動は疲れる。この数日ずっと具合が良くなさそうだった奥さんはとうとうほんとうにダメそうで、しかし僕もダメで帰ってすぐ気絶するように寝てしまった。そのあいだに奥さんはお風呂を済ませていたようで、僕が目覚めた頃に支度を整えて、あれこれと言付けをしてそのまま寝込んでしまった。かわいそうに。世話を焼く体力がないと、かんたんに共倒れてしまうな、とおそろしくなる。一人で食べる夕食は丼によそったご飯に海苔や鰹節やゆで卵を二個も載っけた非常にがさつな味で、がつがつ食べた。体力をつけないと。甲斐甲斐しくできるだけの元気を確保しなくちゃ。倒れるわけにはいかない。