2023.12.06

人が死ぬというのが、どうしても納得できない。闘病のようなこちらが覚悟をするための時間もなしに亡くなった櫻井敦司のことをどうしても考える。あるいは、はじめてそして唯一まともに気合入れて買ったスーツは洋服の並木で仕立ててもらったこと。すでに息子の代だった。誕生日に奥さんがお金を出してくれたのだった。おれがチバユウスケだ、という気持ちできちきちに細身に作ったが、椅子にも座るしお辞儀もしないといけないので半端ではあった。僕はいつだってやりきれない。

KADOKAWA の対応に苛立っている。抗議された状況を鑑みるに損失のほうが大きくなりそうだから出版を取りやめますという態度は、結局のところ問題点を意図的にぼかしズラすことで争点となっている一冊の付加価値を高めることにしかならないので、事態をより悪化させるだろう。抗議者の側からしてもこの結果はうまくない気がする。ゴミのような本が作られることは、ゴミみたいな気分になりはするが、ゴミをゴミとしてあしらい無視することこそが知性であり、ゴミだから生まれてきてはならないと禁止するのは本の優生思想である。そのような態度はむしろただのゴミをゴミ以上のなにものかであるかのように錯覚させる文脈を強化してしまうだろう。そこにどれだけ不当な現状を変えるための戦略的合理性が認められたとしても、誰かのためにべつの誰かの声を封じるというのは、最悪の選択なのだと思う。地獄への道は善意で舗装されているという諺を、陳腐にここで持ち出してもいいかもしれない。

いやしかし、今回の件はただ怒られた程度で出版を取りやめにする、その気楽さ、信念以前の考えのなさ、それ自体のおぞましさであり、善意とかそういうののずっと手前の話だろう。誰もが気軽に「自由」に書き言葉で意見できる環境にあって、オフラインの出版が担保するものとはもはや「自由」ではなく権威であろう。どのような書き言葉に権威を付与するのか、そこにのみ、現在の出版の機能はありうる。だから今回の件に表現にまつわる諸自由を掲げて云々するのはそもそも的を外している。企業に属する個人たちの、組織内のことのほか何も考えていない振る舞いが誘発する、無数の深刻な問題群。

信念どころか思考がないことのたちの悪さ。けれども信念があればよいかといえばそうでもない。理想に燃えた個人たちの実現するものが、必ずしもいまよりマシなものになるとは限らない。

多くの人が「生まれや育ちやコネではなく、意欲や能力だけで正当に評価される社会」を夢見て望んだ結果がいまの新自由主義的社会であるが、実際のところ意欲や能力こそ生まれや育ちやコネによってほとんど規定されていることが露わになり、いっそう露骨な形で不平等が再生産されているのが現状である。そう僕は捉えている。社会は人々が望んだ形に変わっていくが、夢見た形がいまよりもマシなものであるとは限らない。あるいは、過去に見た夢がいくら美しいものであったとしても、その美しさはクソな現状を正当化できるものでは決してない。

さらに飛躍するが、今日だとこういうことも考えてしまう。アウシュヴィッツはガザで起こっていることをすこしも矮小化できないし、ましてや擁護することなどできない。両者はそれぞれ独立して不当な虐殺であり、どれだけ文脈に依存した事態であろうとも、それとは関係なしに許してはいけないものなのだ。

ここに書いてきたものはそれぞれ別個の問題であり、すべてを一元的に判断するための唯一の価値基準などというものはない。だからこれらをそれぞれの位相で具体的に考えることなしに何も言ったことにはならないのだけれど、何かが言いたいわけではない、むしろ何も言いたくない気分でこうして書いている。それでも何かは言ってしまっていることになる。うんざりだ。寒すぎるから。

論理と理論の違いなんてわからなくていいけど無知でいるのは罪か?

想像力をはたらかせろ、そして現実をひっくり返すんだって、そう言い切ってくれるひとつの世界がなくなってしまった。そのことが悲しい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。