2024.08.11

きょうは名古屋から両親が、東京から妹とその夫が家を見にくる日。昨晩までに、引越し後しばらくなあなあにしていた不足や過剰を買い物や工作やゴミ出しで均しておいた。そして昨晩は整理整頓と掃除をなるべく進めておいて、細部は今朝に行った。これらは見栄というよりも、もっぱら人を招き入れる空間の準備という感じで、やはり空間というのは客を招いてはじめて完成するのだなと思う。もてなすというほどでなくても、外から人を入れても大丈夫な強度を保てるように空間を拵える、そのことでようやく引き締まり、決着するなにものかがある。午前中はやくに朝食も片付けも一段落して、みなの到着は昼だからそわそわする。そこでふたりで『逃げ上手の若君』を三話ほど一気見。面白い。ヒロアカ目当てで購読していたジャンプで途中から読んでいて面白かったのだが、頭から見るとますます面白い。これは単行本も買っちゃうかもしれない。漫画の魅力である癖の強い画面とテンポを、アニメとしての可笑しさにきちんと昇華しつつ、留め絵でないと成立しないヘンテコさは潔く留め絵で描くバランス感覚も見事。なにより逃げるという行為の愉悦をアニメーションの運動の快楽できちんと見せてくれるのがいい。

時間になったので先に近所の食堂に向かって、きょうはそこまでの混雑でなくてすんなり入れた。先に席を取っておいて、お茶だけポットで頼んで待つ。急須と同じタイミングでみな来る。妹の夫は遅れてくるとのことで、母と父と妹。みんなでおいしいご飯を食べて、それから家に向かう。玄関から賑やかに感心してみせる一行に、こちらも得意げにこだわりのポイントを語って聞かせる。風呂がよいのだが、風呂のよさはつかってみないとわからないものなので、いくら力説しても、へえ、で終わってしまうのは仕方がない。一階の好きあらば組み込んでもらったアールのよさを語り、背の低い奥さんのための工夫の数々──キッチンの引き出せる足場や階段の段差の高さ調整──を誇り、炬燵テーブルや掘り炬燵部分のタイルカーペットのパッチワークといった奥さんの工作仕事の見事さをやんやともちあげ、楽しかった。二階の書斎にあがると、おおーと声が上がり嬉しい。僕も大好きな場所だ。引っ込んだ場所に篭れるワークスペースとして構えた場所を自慢し、映画も見れるぞとスクリーンをおろしてみせ、本棚を眺めては、あっこの『た、たん』や『タオのプーさん』、『ある首切り役人の日記』に『殺人罪で死刑になった豚』なんかはうちの本ではないか、などと、僕が実家から拝借した本を目敏く発見する父にはこれが面白いよと『チャイニーズ・タイプライター』と『ニュルンベルク合流』を薦めた。『神々の沈黙』は自分で買ったはずだが、濡れ衣を着せられそうになったからひとまずここにはいない弟のせいにしておいたが、確証はない。じっさい僕が盗んだのかもしれない。サンルームで退屈そうにしている亀に構ったりしながらしばらく二階で思い思いに過ごし、一階の小上がり、掘り炬燵を囲む形でくつろいでいると妹の夫もやってきて、再び家を見せて回る。スクリーンに飯伏とヨシヒコの試合を投影してプロレスを紹介する。また一階の小上がりでお茶を飲んで、とりあえずこのくらいの人数を招くことができて、おのおの適当にくつろげるだけの余白がある家になったのだなと、ようやくここが自分の家である心地がわいてきた。父が東邦大学附属東方中学校の入試問題のコピーをもってきてくれて、これはなんと柿内正午の「無駄な読書」が読解対象として採られているのである。さて解けるかなと挑まれ、舐めんな楽勝だぜと嘯いていたのだが、なにせ思い入れのある文章なので、「筆者の考えとしてもっとも適当なものを」などといわれてもどれもしっくりこないような気がして足をとられる気分だ、しかしそれはそれ、受験の現代文というのは僕はつねに得意だったもので、渾身の受験読解テクを駆使して次々に正解していった。しかし筆者だから、とかではなく、普通に現代文の問題と格闘する心地で取り組んでいる。最後の「筆者の考えとしてもっとも適当なものを」には緊張し、ひとつひとつの選択肢を読み上げては検討し、CかEかで迷いがちかもしれないが、Cのほうは前段の理由づけとして提示される文章に本文には書いていないことが盛り込まれているからバツで、だから正解はEだ!と力強く回答すると、答えを確認していた奥さんが、Dです、というからみなでズッコケた。ひとしきりげらげら笑った後、でもそれは奥さんが回答部分の読み違えをしていて、ほんとうはEであっていたのでほっとした。しかし、すくなくともこの出題形式であればこれとしか答えようのない設問で、こんなに丁寧に読んでもらえるとはな、どうせ受験生は設問の前後しか読まないから、これは出題者のことを念頭に置いているのだが、これだけの読解に値するというか、耐えうるものと判断されたことが嬉しい。都内に宿をとっていて、東京駅に荷物を預けてきたという両親は夕方には帰っていく、夕食を共にするらしい妹たちもそれについていく。タクシーに乗り込むのをじゃあねーと手を振って別れ、その足でスーパーに向かい、夕食の買い出し。

寝不足だったのがここでどっときて、眠い。奥さんは別の用事で寄るところがあるというので先に帰らせてもらって仮眠、をとるまえに燃えるゴミの袋を庭に出して、縁側で生ゴミを入れた小袋をひとつひとつ取り出してあらためていく。じつはこの一週間、奥さんの結婚指輪が行方不明だった。スピードスターブックフェスの打ち上げの後、外で落としてしまったかとも心配したが月曜まではあったはずだという。洗い物をするさいに外すのだが、いつもの受け皿にいれたつもりで目測を誤り生ゴミ袋におっこちたかもしれない。そこでこの一週間はゴミ出しを控え、臭いが出るから来客の後まで待ってからゴミ漁りをしてみようと話していた。どちらにせよ室内ではやりたくないし、庭でやるなら日が落ちる前にやってしまいたい、それに自分がなくしたかもしれないものを探すために、くさいゴミをひっくり返すのはとてもしょんぼりするだろうと思い、奥さんが出かけているうちに探してしまいたかった。はたしてコーヒーのがらや、紅茶の茶葉、野菜のくずらに紛れて指輪はあって、見つけた時は思わず破顔した。よかった。ゴミをまとめなおし、外の水道でかるく手と指輪を洗う。それから中に戻って洗面台でよくよく洗う。それから小上がりにマットを敷いて仮眠をとって、奥さんが帰ってくる頃にはすっかり日は暮れていた。手を出して、といって指輪をはめると、それまであまりにショックだから考えないようにしようと努めて冷静だった奥さんは、嬉しさよりもまずこの数日押さえ込んでいたびっくりや悲しさが一気にやってきて、ひん、と言った。

夕食は柵で買ったかつおをまずは刺身で、あとは焼きで。BUCK-TICK のライブ映像がこの三連休にはYouTube のプレミア配信で見れるというので、きょうは見てみることにした。いまだ「絶界」だけは泣かずに聴けない。あの日横浜で立ち会った三曲のパフォーマンスについて、すこしでも美化するようなことを言い始めたら全力で殴ってくれと思っている。新盆か。そう気がつく。奥さんにいわれて気がついた。姿を見てしまうとまだまだぜんぜん駄目だな。驚くほど動揺している。すぐれたパフォーマンスというのは、パフォーマー個人の私生活やら背景やら思想やらとまったく無関係に、ただ舞台上に現前するその瞬間瞬間の煌めきが、そのまま掛け値なく人が謎にこの世に受けてしまった生を肯定してしまうほどの光度をもち、一度でもそれを浴びてしまったら、照らされてしまったと思うほかない。誰かの生を、人間関係など文脈とは関係なしに、即座に肯定しうるような光は舞台上にしかない。だからこそいっときの輝きを求めて劇場に足を運ぶのだし、そこにまた素晴らしいパフォーマンスが現れるとするならば、それは元気に生きてる体があってこそだ。惚れこんだパフォーマーの死に抱く悲しさは、とにかくこの世界からひとつの大きな光源が失われたという憤懣といったほうが近い気もして、故人として悼むとか、そういう感じではないのかもしれない。とにかく、あの素晴らしい体を返して欲しい。その一心だ。まじで意味がわからん。死とかいうやつ。さいごに歌われたのが「独壇場Beauty」で、独壇場はダメだよ!と奥さんはわっと泣き出し、僕もずびずび鼻水を流した。

お風呂に浸かりながら、きょうは盛りだくさんだったな、と考える。これらをどう日記にしようか、とも考えており、さいきんは惰性になりがちな日記のことを、久々に書き出す前から考えているなと思う。それじたいが嬉しいかどうかはわからないが、日記を書きたいと思えるような日があってよかった。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。