2025.02.04

朝はすこしたっぷりめに眠る。とはいえ八時起き。朝食を食べているうちにタクシーが来てしまって、ふたりして慌ててもごもご詰め込みながら支度。ルドンはすんなりキャリーバッグに入ってくれるからいい猫。けっきょくアプリで配車したのだけれど、行き先が動物病院な時点で推測できるというものだった。猫は普段以上におしゃべりで、車の中ではひっきりなしにニャアニャアとやった。病院の待合室でもそうだった。さいわい一番乗りで、続く客もなく、スムースかつ丁寧に診察してもらえた。もともと猫エイズキャリアだ。咳や鼻水、口内炎はずっと付き合っていかなきゃいけない。いまはまだ大事にはなっていないから、気長に見てあげよう。なんだかんだで縄張り意識のある動物だから、引越してまだ二か月だったらストレスが溜まっている時期でもあるよ、焦らずいこうね、とのことで、ほとんど人間のケアだった。思えば、ルドンは何度も通院していて慣れっこであり、むしろわれわれホモサピのほうが初めての動物病院だ。緊張しているのはこちらのほうだった。昨晩も、ここまでの道のりを想像して戦々恐々としていた。お腹の舐め壊しもまだ悪化する前段階とのことで、軽めの塗り薬をもらう。すべてが何事もなく済んで、気が抜ける。奥さんが帰りのタクシーに乗り込むのを見送り、駅まで歩いて出勤。階段では少し痛みの気配がちらつくが、ようやく問題なく歩けるようになってきた。むしろ人間のほうが傷んでいる。

腑抜けの労働。奥さんから舐め防止のための猫用衣服の着用について連絡がある。着せれはするけれど、酔っ払いみたいにふらついて、へたり込んじゃうという。調べてみると、髭だけでなく体のあちこちに平衡をとるためのセンサーがあり、布で阻害されるとうまく歩けなくなる猫は一定数いるという。片目の猫であるし、そういう部分はけっこう繊細なバランスがあるのかもしれない。動画や写真を見るに、けっこうムチムチにパツパツで、ジェフ・コブみたいで愛くるしいが、そもそもサイズが合っていないかもしれないな、とも思われた。

今晩は紀伊國屋ホールに千葉雅也と福尾匠の対談を見に行くので、軽めにドゥルーズに触っておくかー、とリュックに入れてきた。読んだはずなんだけど、ほとんど覚えておらず、以前よりも何言ってるかよくわかるな。しかし、カントに注力しているところに二〇世紀の現代思想を読むと、ナウさにくらくらする。僕はいま十八世紀が最新なので。二〇世紀は今すぎる。

労働しながら徐々に現代人に戻り、おかげでトークは面白く聞けた。質疑応答の時間にはしゃしゃり出て聞きたいことも発話できた。その反応を見るに、もはや哲学も芸術もなく、ただプロダクトしかないという現状認識はお二人に共通しているようにも思えた。そのうえで、福尾にとっての「芸術」とはなんなのか、どうプロダクトと違うのかをもうすこし訊きたかった。千葉は小説についても意識的にプロダクトとして扱っているように見えて、理論と実践の一貫性を見出しやすいのだけど、福尾の『非美学』を読むと「芸術」がロマンチックなほど不可能なものとして描かれているようにも思えてしまい、そこで僕は躓いているという気がした。もはやそんなものない、すべてプロダクトで、身勝手な誤認によって見出されるほかないのだ、というのであれば、わざわざ哲学と芸術をああまでして切り離す意味が取れないというか、プロダクトであるという形で一元化すると、それはそれで両者の区別がぐずぐずにならないだろうか。‪ぐずぐずなんだよ、という千葉のスタンスはわかりやすい。今晩の発話だけ追っていくと、福尾も概ねそこに同意しているようにも思えるけれど、やっぱりそれぞれ無関係なものとして自立を言う。この大元の問題意識を拾い損ねたままな気がする。‬

家に帰ると夜もかなり遅め。お風呂に入って、夕食を済ませるとほぼ日付を越す。都心からずいぶん遠ざかった。それでもプロレスは見る。エル・デスペラード vs. 藤田晃生、いい試合だった!

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。