朝『ロマン』。家が焼け、結婚が決まる。宴会が始まり、おのおの乾杯のスピーチが長い。猫がお腹を温めてくれており、ついソファで二度寝。
朝日新聞の記事を読んで、どうにか行けないかなあと考え、いっそ明日行っちゃえばいいんじゃないかと思い当たる。週末岐阜で西へ行くのだから、前もってちょっと大阪まで行き過ぎたっていいだろう。清風堂書店で『よつばと!』と『クロワッサン』を買おう。ほかにもたくさん。
いま一日でいちばん好きな時間を訊かれたら、「猫トイレ穴あきスコップで掬って、おしっこで固まった猫砂や、元気のよさそうなうんちを見つける瞬間」と応えるだろう。そんな至高の時間を四日も持てないのはつらいけれど、書店が閉まるほうがつらい。行くぞと決めるとだんだん寂しくなってくるもので、寂しい!と声に出していうと、素直でいいね、と奥さんは微笑む。四日も奥さんと離れるのも寂しい。寂しいことばっかりだ、というと嘘で、子供の頃からずっと寂しがってばかりいたけれど、奥さんと暮らしだしてからのこの十年は寂しさがずいぶん鈍っている、孤独、みたいなことを言うと、はっ!と鼻で笑われて、あまりの頼もしさに笑ってしまったことがある。猫との生活が始まって以来、ずいぶん久しぶりに寂しさへの感度が上がっているような気がする。寂しさとは必ずしも不在や不足を意味しない。過去や未来の予感として寂しくなるというのは十分にあるというか、あとさきを考えるだけの暇があるから寂しくなれる。いまだけに目一杯だとそうはならない。つねに早すぎるか、遅すぎることについて、人はぽつんとした気持ちになる。奥さんはふざけて、四日もあなたがいないのか、ああ寂しい、と冗談めかしていうが、こちらはほんとうに寂しくなってくるので、面白がる。