通勤電車で『社交する人間』を読みながら、思いついたことをメモ代わりにつらつら書いていく。
「新自由主義」なる気分が、その名に反して不自由さを強めてきたのは、個人のあらゆる側面を一致させるほうがハッピーというような、素朴な一貫性への信が原因だったのだと思う。じっさいの個人は、お互いに矛盾する要素を案外平気で同居させておけるものであったはずで、たとえば職業選択と自己実現の同一視が極端に推進されることによって、そうした曖昧さが損なわれていった。 矛盾のない状態は自由の達成ではなく、むしろ逆だ。生活と労働と思想と美意識を、かっちり連動させることをしないで、相反するロジックを幾重にも重ねた状態に身を置くほうが、おそらく自由の実現に近づいていく。 たとえば、失言を連発する経営者の会社から賃金を得て、電車で席を譲らず、数十年前の人権感覚が希薄な撮影現場で製作された映画に心躍らせ、暴力を振るう恋人への愛着を捨てきれず、あらゆる幻想と欲望の煮凝りのような二次元表象を消費しながら、差別に反対する態度を表明する。このようなことは当然ありうることだ。 あるいは、単一の仕様のシステムの要件定義では、合理的な判断として、単一の仕様のもとユーザの行動を統一することが理想とされる一方で、政治においては、「一個しか原理がないのは危ないから多元化しよう」というものであるべきで、複数の相矛盾するロジックが拮抗している状態こそが理想である。
告知があるからそれ以外の投稿もしておいたほうがよろしかろうと、先のブロックはかつてTwitterだったところに書いていった。けっきょくあそこがいちばん人が多い。宣伝の機会だと割り切ってテレビに出るというのはこういう感覚だろうか。さいきんは外に労働にでかけるときばかり饒舌で、いちにち家にいると日記もプレーンになっていく。これは単に、外でできる気晴らしが限られるから散発的な読み書きに偏るという話だ。家にいるとアニメや映画やプロレスを見たり、奥さんとおしゃべりしたり、ルドンに構ってもらおうとしてフラれたり、パズルしたり、掃除したり、料理したり、やることがたくさんあるから、わざわざ読んで書こうと思えるほど持て余す暇がない。というか、持て余すほど追いつめられる前に着手できてしまうことが多すぎる。
夕食後、パズルが完成した! 三日間、たっぷり楽しんだけれど、二人で和気藹々とはならず、黙々と真剣に、必達のタスクのような趣で挑んでしまったので、なかなか難しい。それから奥さんと投票先についてかるく雑談。東京の外に引っ越してみると、選挙でとりうる選択肢がぜんぜん違って、これまで見ているものってずいぶん狭かったなー、と痛感する。
