2025.08.14

最近気がついたんだけど、本は読み終わらないほうがいいな。

最後のページに辿り着くと、「読了」だとか「冊数」といった偽の達成に満足してしまって、せっかく読んでいる間に持続していた問いや関心との付き合いが途絶しやすいし、本を読むことで普段使いの体とは別様に調律されていた知覚のモードがあっという間に元に戻ってしまう。

たとえば、あと八年くらいは田中純『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』を読みながら、ボウイのキャリアに沿ってアルバムを聴き込むというだけでじゅうぶん遊べてしまう。むしろこれを数ヶ月でやってのけようというほうが無茶だ。カントももはや数ヶ月触ってさえいないが、まだ読んでいる勘定になっているから、あと二〇年はカントのことを考えているかもしれない。『社交する人間』はかなり意識的に時間をかけたが、読み終えてしまったのでいまもうすでに薄らいでいる。しかしこの薄らぎは血肉化といってもよさそうな部分もあり、『〈食べ方〉の文化史』や『演技する精神』を読み始めることで社交への関心のリレーをつなぎ、広義の意味ではまだ読んでいると言えるから考えが続いている。

電車では『訳された近代 文部省『百科全書』の翻訳学』を紙で読む。時期的に兵藤裕己を思い出し、そういえばKindleで詰んであるな、と『〈声〉の国民国家 浪花節が創る日本近代』も読む。これは序文だけ読んでわくわくしたままだったからすでに半年以上前に読み始めていた本。

北千住に寄って、編境の棚を撤収する。毎月の定額支出の見直しの一環。時間が余ったので駅前のカラオケで二時間弱ぼえぼえ歌唱。大きな声をたくさん出して楽しかった。喉は痛めた。それから湯島へ出て、羊香味坊で両親と落ち合い、羊尽くしの晩餐。『孤独のグルメ』で予習してきたという両親はジャスミン茶で、僕はビールの中瓶からのトマトサワー。この血筋のわりに、よく飲むようになったねえ、とわれながら思う。奥さんははじめはジャスミン茶だったけれど、二杯目は白酒をショットで飲んでいた。〆にパルコヤに入っているみはしであんみつを食べて、かなりいい感じのコースなのではないだろうか。両親は東京タワーを望めるいいホテルに泊まるとのことで、御徒町の駅まで見送る。湯島から家に帰って、寝ようとするとルドンからものすごい異臭がする。肛門腺の分泌液が詰まっているようだ。奥さんはYouTubeで見たことがあったから、さっそく尻尾を持ち上げて肛門を絞る。すると、にゅっと半透明のどろどろが出てきた。ティッシュ!と指図されて木偶の坊のように立っていた僕ははっとしてティッシュを手渡し、お尻を拭く。一階の生ゴミ用のゴミ箱に捨ててくる、となけなしの仕事を見つけてティッシュを持っていくのだが、すごくくさい! ルドンはケロッとした顔で、においはおさまった。奥さんは、あなたの——僕のことだ——にきびを潰すのと同じ愉悦があった、と満足げだった。いつもありがとう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。