今日の寅さんは「寅次郎物語」。どうも代わりに読まれたかのような既視感があり、それは『愛と人生』だった。土手を段ボール紙で滑走するシーンや、寅さんが日本酒をちゅっちゅっと啜るシーンがとても好きだった。それらは映画にもちゃんと出てくる。そうか、そうだったのか。ここにいたのかい、お前さんは。映し出される柴又が、既知の土地としていっそうの存在感をもって立ち現れるようで、やはりこの体で行った場所というのはそれだで何かを喚起する。上京して改めて思ったのは、東京の地名や地理を体感的に知っているだけで読みやすくなる小説の多いことだった。
アメリカの小説なんかも、地理を感じたらまたぜんぜん読み口が変わるのだろう。読んでいる間もこの体はこの場所を離れはしないが、しかし僕という存在のすくなくとも一部は読んでいる時間はたしかにどこでもない場所に散らばってある。
「わたしは読み、そして夢想に耽る……。してみれば読書というのは、ところかまわぬわたしの不在なのだ。読むということは、いたるところに遍在することなのだろうか。」これこそ始原的な経験、そればかりか秘儀伝授的な経験というべきだろう。読むということは他所にいるということであり、自分がいないところにいるということ、別の世界にいるということなのだから。それは、あるひそやかな舞台をしつらえること、好きなように出たり入ったりできる場所をしつらえることだ。それは、テクノクラシーの透明性に支配されている実存、ジュネにおいて社会的疎外の地獄を具現しているあの仮借ない光に支配されている実存のなかに影と夜からなる片隅を創造することである。マルグリット・デュラスも語っていたものだ。「きっとひとはいつも暗がりのなかで読むのだろう……。読むということは夜闇のものなのだ。真昼に戸外に読んでいてさえ、本のまわりには夜が降りている」、と。
ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳(ちくま学芸文庫) p.396-397
『日常的実践のポイエティーク』は前に読んだ時も中盤で何言ってるのかさっぱりわからなくなり、惰性で読んでいると終盤でまた痺れるほど格好いい文章の連発だった。
ポッドキャストでも話したが、この本のいいところはなによりも「消費者」や「大衆」の知性への屈託ない信頼にこそある。それは寅おじさんに人生の意味を問う満男の態度にどこか似ているかもしれない。
(…)数字と「事実」のレトリックをあやつる権力は、ほかでもない、こうして解放された読者の内面を標的にしているのだ。 けれども、権力のいだく幻想をかならず共有してしまう科学の装置(われわれの装置)が、その幻想におぼれそうになるとき、すなわち、大衆は拡張主義的な生産の制覇と勝利によって変えられてしまうのだと思いこみそうになるとき、その時にこそ思い起こすことはきっと良いことだ、人びとはそんなに馬鹿ではないということを。
同書 p.404
本を読んでいると、ああ本を読んでいてよかったなって思うことがなんべんかあるだろ。そのために本を読んでんじゃないかな。
読書とフーテン暮らしは似ているところがある。どちらも他人の土地に侵入してはそこで密猟をはたらく。じっくり戦略を描くために落ち着ける自分の土地を持たないからこそ、その場その場で戦術を駆使して自分のいいように掠め取っていく。それはただ生産者からの供給を受け取るだけの完全に受動的なあり方ではない。かといって完全に能動的にすべてを選びとっていけるわけでもない。状況の只中でうまくやる、筋を通す、そうやって人びとの「馬鹿でなさ」というのは発揮され続けている。鳥瞰で見ても取りこぼす蟻のような行為の集積。