2026.01.31

公開で書くこのような日記はなんだかんだで七年くらい継続しているわけだけれど、日記の初期あるいは当時の奥さんとのおしゃべりのなかでも「言語化」というタームが頻出していたしそれを肯定的にとらえてもいた。それがいまではすっかり陳腐化し、なんならもう言語化はよくないかという気分さえ漂い出しているように思えるのだが、当時はそれなりの切実さというか逆張りというよりもすこし切実さのある現状への抵抗として言語化最高というようなことを言い募っていた。当時から別にふたりだけが言っていたわけではなかったけれど、いまではほとんど誰でも言うようになっている。歳を取る悲しさとは、当時はまっとうさの手段と信じて支援していたものがいつしか誰かの目的にすり替わり、むしろ難色を示すべきものへと変質することであり、そうした態度表明が頭の固い反動めいてしまうというところにあるのだろう。それが目新しくて未知だから反対するのではない。むしろ見慣れすぎた既知であり、しかもその可能性が別な仕方で開花してしまいそうであるから反発するのだ。しかし、現に状況を動かし次の気分を作っていくのは軽やかに次だ次だと進んでいく人らであり、それはかつて言語化最高と唱和していた僕らのようなものだろう。けれども、それはまた次の世代にとっては抑圧する規範として機能し始めてしまうだろうし、それがまた軽薄に乗り越えられていくのだろう。こういうことがわかってしまうと、ひとつの標語を信じ込んでそれだけを指針とするようなことはできなくなっていく。いやまあこれはもともとか。

でも、そうはいってもやはり言語化は最高だと、いまもおおむねそのように考えている節がある。近年の言語化ブームに思うのは、むしろそこで夢見られている言語化というのは不充分ではないか、もっとちゃんとぜんぶ言おうとしなよ、という不徹底さへの苛立ちのようにも思えなくもない。たぶん、当初のふたりにとって言語化とは能力でも知識でもなく、単に態度の問題だった。誤解やズレを恐れすぎず相手を信じて両者のあいだに言葉を置いてみること、それを一緒にああだこうだと変形したり修正していくこと、そのようにして当人たちだけにしっくりくるオーダーメイド品として言葉を仕立てていくこと。そこでは流通や再現の可能性は端から考慮されていなかったのではないか。過去を美化しているような気もしないでもないが、これはしかしふつうにそうな気がする。要はちゃんと話をしようよ、という以上のことを言っていないというか、そもそも他人への興味が薄いふたりがふたりのためだけに話してきたことだ。こんなことをDr. Holiday Laboratory のポッドキャスト「QMB」で『中二病でも恋がしたい!』と『正反対な君と僕』の対比が語られているのを面白く聞きながら考えていた。「正気じゃない夜に語りたい」の初回で、漫画みたいなというか漫画になりたさに屈託のない放送部のすてきなエピソードを聞いた直後だったのもあってよりいっそう『中二病でも恋がしたい!』を見てみたくなった。僕なりにいえば寄物陳思の話っぽい。そして寄物陳思とは、たしかに言語化の次というか、その発展形として洗練されていく方向の先にあるものだろう。人生経験のまったくない子供でさえ、ほろ苦い中年の恋の歌を詠むことができるというような方法論のほうこそ、最近にわかに顕わになっている言語化への欲望を充足しうるものなのではないだろうか。やっぱ和歌の勉強はしたほうがいいんだろうな。言語化ブームとナショナリズムの時代は和歌に結実するだろう。心底知らんけど。だったら漢詩をやりたくなってくる。

夕方は銀座で待ち合わせをして、奥さんとシャーク鮫くんと服を見る会。本番は来週の春夏の立ち上がりなので、きょうはざっといろいろ見てみるぞという感じ。ドーバーストリートマーケットをフロアごとに案内してもらって、それぞれの階の什器や大道具のスケールが微妙に違うことで天井の高さが違うように感じられたりするのが面白い。ブランド名や案内が廃されていることでただ形を見るように設計されていて、だんだん凸凹していたり継ぎ接ぎだったりしていないほうが変なんじゃないかという気分になってくる。見ているだけで楽しいというか、見ている以外の楽しみ方がまだわからない。吊りの状態ですでに面白いと着てみようという発想がまず浮かんでこないんだなと気がついたのは、じゃあせっかくだからこっちも行ってみましょうかと案内されたイッセイミヤケでは試着してみたいと思ったときで、こちらはプリーツがどんなかんじのシルエットになるのか中身がないとまったく予期できない感じだった。着てみるかあと呟いた瞬間にシャーク鮫くんが店員に声をかけていてスマートだった。試着してみて、あ、と思う。試着室から出るとふたりにやんやと褒められる。そうだよね、これはいいな。楽しくなってきてあれこれ試させてもらう。ジャケットもすごくよかったな。名の知れたブランドの服を買う、というのが僕はこれまでどうにもできなくて、というか服にどうお金をかけていいのかよくわからないところがあって、でもたぶん一度やってみたかった、今日なのかもな、今日は下見のつもりだったけどこの感覚を忘れたくないなと思い、パンツを一着買ってしまうことにする。ジャケットは来週また考えよう。奥さんもそそのかしてあれこれ着てみてもらい、とても素敵だった。ふわっとしたシルエットでぱっと華やぐ感じがある。すごくいいなと思い、一緒に買っちゃおうよとつっつく。芝居や本だけでなく、すてきに装うことにお金を使ってもいいんだということを納得してみたかった。たぶんふたりだといつまでも決断できなくて、今日は隣でシャーク鮫くんがにやにやと背中を押してくれるからえいやといける。いった。奥さんと、ああやって楽しく買い物をさせて何かの詐欺なのではないか、じつは店からマージンをとっているのではないか、いやしかし今のところ彼の旨みはイッセイミヤケでもらえる水だけだ、などと冗談を言い合っていると、僕は柿内くんの悪友をめざしてますから、と言われ、すごく嬉しいな、これまで悪友っていただろうか。そもそも同性の友達と服を買いに行くというのがこれまでなかった気がする。ロマンス詐欺にひっかかるというか、騙されていたとしてもそれでいいと考える時の回路ってこういうのなんだろうなと思う。真面目な話、いい服をちゃんと買うということに、謎の屈託がずっとありそういう呪いがあっさり解けた手応えがあったのだ。呪いが解けたという私的な事実は、それがフィクションによるものであろうが関係なく事実なわけで、そのありがたさに人は前のめりに騙されたくなるのではないか。

服を描写する語彙がない。これまで買ってきた服はだいたい機能で選んでいた。でも、そもそも言葉では正当化できないけどなんかいいなというものとして服というのはあるのではないか。たぶんそのような言葉にできない楽しさみたいなものを、けっきょく僕はどうにも肯定の仕方がわからないままでいたのだと思う。意味なんていらないだというためにこそ言葉を費やしており、それはけっきょく言葉の外を信じられていないことに等しい。お金を払うのであれば、きちんと意味に支払いたいというようなところがあるし、だからこそ今日のためにギャルソンの本や記事をしこたま読んで挑んだわけだけれども、まったく勉強していかなかったイッセイミヤケをただ形に嬉しくなって買うことができたというのが個人的にはかなり大きな飛躍で、そうか、できたんだなあと、ふわふわした気持ちで帰宅。お酒を飲んだらちょっと具合が悪くなる。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。