年度末ってどうにもモチベーションが維持できないというか、片づけは早々に済ませたことにしてしまうほうだから、正直かなりやることがない。だったら家にいたいのだが、ぶーぶー言いながら外出し、電車で本を読みだすころにはなんだかんだで外を出歩いた方が体調はいいんだよなと思い、でも調子は良くなっても帰るころにはぐったり疲れているのだから意味ないんだよなとも思う。引きこもっていると疲れないが、それは疲れるための体力さえなくなるということでもあり、日々ちゃんと使い切らないと体力は維持されない。使うと疲れるので、使い続けているあいだ体力はあるかもしれないが、ずっと疲れていることでもある。調子がいい状態とは、つねに疲れているということなわけだ。だから、疲れているということは調子がいいということなんだ。だからいま僕は絶好調で、ぜんぶがばからしくいやになっちゃうなあもうずっと寝ていたい。
僕にとっての批評というものは、同時代のものを扱いつつそれを歴史化するというよりも、あらゆる時代の作品や営為を掘り返しては非歴史化するものという感じがする。ものを知らず金もない十代に、自分が生まれるよりも前の音楽や映画や本を無時間的に享楽していた体験こそが大事で、発売したての新品を簡便に入手できる大人が再帰的に現在を価値づけるような消費はけっきょくは反射に過ぎないよなという気分がますます高まっている。
大人より子供のほうが批評的でありやすいのは、同時代的であることへの違和感も快適さもないからで、なにせその時代しか知らないのだから比較しようもなく、それを所与のものとして考えるほかない。そのうえであらゆる過去をべたっと平面的に現在の享楽として受け取る感覚が素朴にある。これが大人になると流行はとりあえず素直に受け取るほかないものではなくなり、あのころとは違う、などと相対化ができてしまう。こうなると過去の作品もまた文脈のなかで時間化され、歴史的なものとして把握することができるのだが、このような把握はいま高く売れそうなものを値付けして売るというようなせせこましい商売であり、陳腐な流行の後追いにほかならない。べたっと素朴に受け取り諸作品から時間を剥奪し、非歴史的なでかい文脈に置き間違えてしまう。そのような大胆で子供じみた間違いこそが批評である。
ここでボードレールは、モダニティを流行から詩情や永遠性を抽出することだと考えている。流行とはすなわち、現在の表象だと言うことができる。流行はその定義からして過去性も未来性も薄いものだからだ。「流行といえばすべて、すでにその概念からして儚い運命にある」とは一八世紀の哲学者イマヌエル・カントの言だが、彼が指摘するように、仮に流行が長続きしてしまうとそれは流行ではなく慣習となってしまうがために、流行はその発生からして短命であることが宿命づけられている。それゆえ、流行という概念は強い現在性を帯びるのである。
蘆田裕史『言葉と衣服』(アダチプレス)p.121-122
《過去性も未来性も薄い》流行を、過去や未来を含み持つ時間のなかに位置づけなおすような批評はつまらない。現存する特殊性を一般性へと無理やり敷衍するのは売り手の詐術でしかないではないかという白けがある。そうではなく、いまここにしかなく、すぐさま過ぎ去っていく現在の単独性から普遍性を抽出する営為こそが面白そうだ。それはかなり難しく、儚いものでしかありえないだろう。かつてあった単独性を夢見て、そこから普遍性を抽出するような無謀な大言壮語にだけ興味がある。もう古本しか買いたくないとさえ思うが、新刊も気になるので買ってはしまう。しかし、いい新刊とは誰も読んでいない古本を読み直すような本なのだ。時代と関係ないものを、スケールとかも気にせず淡々と楽しむこと。加齢とともに見失いがちだが、やはり軸足をここから離してはいけないのではないか。
寝る前に『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を声に出して読む。けっこう楽しかった。聞いてくれている奥さんが要所要所でへへへ、と笑うと嬉しい。まだ名前も思い出せないが、このペースで読んでいけば二ヶ月くらいで読み終えられそうだ。
