2026.04.04

この数日ルドンの甘たれが絶好調で、とにかく首元を掻いて欲しがる。掻いてやると無限に抜け毛が舞う。すごい。蜷川演出みたい。掃除機をかけると明らかに部屋の空気が清潔になる。猫と暮らすというのは、油断するとすぐ埃っぽい空間で生きるということだ。自分たちヒトのためとなると最低限でいいと思っていた維持のラインが、猫のためとなるとすこしだけ上方に修正される。そのうえで毛がえぐい抜け方するので、掃除の頻度が体感としてはかなりのものになる。それはそれとして、さいきん添い寝するルドンが布団のどまんなかを占有することを覚えたので、朝起きると僕の方が壁にひっつくようにして遠慮しており嘆かわしい。そこはヒトのほうが縄張りを主張すべきところだ。なぜって朝から寝た気がしない。そのくせルドンは日がな一日寝ている。膝の上に乗ってきて寝こけ、窓べりで日向ぼっこしながらうとうとし、ソファの上で微睡んでいる。対してヒトは起きていなければいけない用事がある。掃除とか。

『ザ・ロストシティ』を見る。かつては歴史研究者だったロマンス小説家が、えっちな表紙モデルのチャニング・テイタムと紆余曲折の末ロマンス小説みたいな大冒険を繰り広げるという映画。もうただチャニング・テイタム目当てである。欲望の客体をここまで気持ちよく引き受ける男がいるんだな。モテモテ人生を真っ当にやっている。モテモテだからモテたいという屈託がなく、モテモテという他人からの気持ち悪い欲望を向けられる状況も淡白に受け止めてなお健康な感じ。ヘルシーなエロ。安心安全なむちむち。清潔感のあるえっち。チャニング・テイタムはすごい。やさぐれたロマンス小説家が自作を自嘲するのに応答するシーンがよい。かれは、ロマンス小説のファンに声をかけられたエピソードから、最初は恥ずかしかったけど僕の仕事を喜んでくれる人たちの顔を見て自分が誰のために仕事しているのかわかったのだと語り、あなたが小説を書きたくないなら書かなくていいけれどあなたの小説をあなたが貶めるのはファンたちを貶めることだからやめて欲しい、と毅然と言い放つのだが、そのあとに、あなたは表紙ではなく内容を読んでくれる人だと思ってた、と寂しげに漏らすのがあまりにもかわいい。

他人に過剰に内面を読み取ることも乱暴だが、過剰に表面しか見ないのも乱暴だ。チャニング・テイタムのえっちな男体という表面の魅力は、しかし濃厚に予感される内面のほのめかしによってこそ成立している。見えそうで見えない内面のほのめかし。その技術の卓越が見る側を安心させる。チャニング・テイタムがほのめかす内面だけ読めばいいし、見せてくれる体だけ凝視すればいい。健全なエロというのは、あらゆる屈託を排し、ただ楽しめばいいんだよ!と促してくれる。ていねいな下拵えが済んでいる。種無しぶどうや骨抜きチキンみたいなものだ。玄人の仕事だ。

夜も奥さん不在なのでいつの間にか復活していた『アメリカン・フィクション』を見る。パーシヴァル・エヴェレット原作で、『ジェイムズ』を読んだあとに見たかった。『ジェイムズ』もそうなのだが、視点人物の卓越性の徴があまりに白人文化への順応に近すぎるようにも感じるのだが、そのような違和感が家族との軋轢という形できちんと相対化されてもいて、なんなら『ジェイムズ』よりも好きかもしれない。ここでアイロニカルに描かれている他者の視線のパフォーマティブな外在化というのは、黒人にとって長らく外在化を通した内在化として深く尊厳を毀損するものであったし、依然としてそうであるということをあけすけに表明する。そして、そんな状況下で外在している自らについての表象を内在化させない方法が実に西洋白人的教養に裏打ちされた皮肉っぽい精神であるところに本作のやるせなさがある。

非黒人であるチャニング・テイタムは、男性というジェンダーを自覚的にパロディすることで、ある種『アメリカン・フィクション』の視点人物と通じる演技を遂行しているようにも見える。しかし、チャニング・テイタムには皮肉っぽさはあまり感じない。素直にやる、というタイプの批評の印象を残す。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。