伊多波宗周『社会秩序とその変化についての哲学』。松永澄夫の仕事への応答として位置付けられる八章。〈私〉たちは固有の肉体をもって生まれ、ある特定の価値体系において養育・教育されながら自らを形成されていく。経験に応じて徐々に変化していきながらも、〈私〉の肉体の持続は揺るがない。他者との関係において個別具体的な肉体を備えた《変わるけれども変わらない〈私〉》1がある。この〈私〉の肉体が実行する行為は、このようにしているつもりという一人称的なものの位相からこのようなものとして解釈されるという三人称的なものの位相までつねに多重的であり、ただひとつに定位できないものである。このように〈私〉は、つねに複数の判断が折り重なるひとつの肉体で生きる。
〈私〉は人の世界において具体的な肉体で生きる。だがそれにくわえて、他者との関係においては意味を媒介にして持続的な存在として生きる。そして、そうでなければ〈私〉は自由ではない。「自由とは、異なる価値事象と意味連関へのコミットの切り替えそのことにある」のだから(「在ることと為すこと」『価値』三五八)。
伊多波宗周『社会秩序とその変化についての哲学』(東信堂)pp.201-202
〈私〉に対し《社会は、変わらないけれど変わるもの》2としてある。社会秩序は途方もなく強固だが、弱さや脆さもないわけではない。
まず、知覚世界へと影響を及ぼす行為によって社会秩序が変化することがありえる。それは、知覚世界を変化させる行為を反復可能なものとする技術の発明、伝播、普及を通して〈私〉たちの生きる社会の秩序の変化を促すものだ。反復を旨とする技術とは、反復を可能にするための規格を要請し、効率のために社会自体がその規格にそぐうように変化するよう圧力をかける。技術の発展に伴い社会のありようも変化し、それにつられて〈私〉も変わる。このような技術決定論だけではしかし片手落ちだ。技術を介した標準化による秩序変化ではない、反復不可能な〈私〉からありえる秩序変化とはどんなものでありえるだろうか。そう松永を読む伊多波は問う。
肉体という物質的側面は、他の〈私〉と共通の物理法則の規定を受けている。この物質的側面のことを知覚世界と呼び、必ずしも物理的に不可能なわけではないことを許されなかったり認められないことであるとして制限する社会秩序の層と区別をする。間違いなく共通の知覚世界の秩序に対し、社会秩序は、共通と言ってもよい意味世界のそれであると定義される3。
意味世界には、複数の体系がありえ、さらにそれぞれの体系に複層性がありえる。〈私〉の「自由」とは、まずそれらへのスイッチ可能性のことである。また、秩序変化とは、秩序そのものを抜本的に変化させることではなく——そんなことはありえない——たとえばその上部に別の秩序を重ねることで重層化することでなされるものだ。
伊多波は、このように別の秩序を重ねが消されるおおもとにある秩序、いわゆる社会的秩序のことを基層的秩序と名指す。その上に重ねられた新たな秩序は、基層的秩序によって規定されるためまったくの別物というわけではないが、基層的秩序の側に変化を促すこともありえる。前提となる秩序に別の秩序を重ねていくことで、社会は変わらないけれど変わる。変わるわけでもなく、変わらないわけでもない、このなるようになるという考え方こそが大事だ。
松永は述べる。哲学は基本的に、「現実を愛おしく思うことを希望する振る舞い」である。現実の秩序を基層から否定しようという素振りは、哲学に相応しくない。そればかりか、それは秩序を変化させる役にも立たないと言えるだろう。なぜなら、まず、「現実の強固さは、それと自分とがどう関わるかによって有り方を変える面がある」。そして、哲学の営みにおいて、現実を構成する諸系譜を丁寧にみていき、それを言葉によって描写するときにこそ、「現実を構成する諸事象のつながり方を変え、そこに設定される秩序の強度を変える可能性がある」からだ(以上、「生活と思索の言葉」『価値』一三六、一五一ー一五二)。既存の秩序に強度変化をもたらす営みは、本節(A)末で示した本章での用語法において、基層的秩序に力を及ぼすことだと言ってよい。ここに、〈私〉を起点として社会へとつながる二つ目の通路が書かれていると考えられる。行為の反復可能性としての技術を媒介とした通路とは別の通路、一回性・独特性こそが意味をもつ哲学という通路である。
だが、哲学だけが秩序の強度を変える可能性をもつのではない。松永は、たとえばパーティーでの衣装を「どうしよう?」と考える場面においても、強度変化がなされうると考える。パーティーに場違いなドレスを着ていくという場面ではなく(これは現実否定的と言えるが、松永はある種の前衛主義をつねづね警戒する)、少し「冒険」であるような衣装を問題にして、次のように述べられる。「標準的価値当事者を想定しつつも、自分を標準的価値当事者の一人から抜け出させる行動をとるような人々は、自らが想定した秩序を揺るがす要因になる」。このような行動も、秩序に新たな層を加えているというよりダイナミズムを生み出しているという意味で、秩序の強度変化に参し、基層的秩序に影響を及ぼしていると言える(以上、「評価と秩序形成」『西日本哲学年報』一ー、一四七頁)。
哲学とドレス選びの冒険とに共通するのは、想像の力であろう。松永哲学にあって、思考とは想像の一種である(たとえば、『感情』二五)。哲学が、現実においてパターン化され権威化している言説から一旦自由になるとき、衣装選びで、ドレス・コードから少しばかりの冒険を試みるとき、技術的に構築された社会性から想像の力によって自由になっていると言えるだろう。もちろん、芸術の場合もそうだろう。この想像の力を源泉とした一回的で独特な営みが、技術化とは別のかたちの社会秩序変化の可能性を開くと考えられている、そう捉えてよいはずである。
伊多波宗周『社会秩序とその変化についての哲学』(東信堂)pp.215-216
哲学もドレス選びも、もとからある秩序——基層的秩序——を踏まえたうえであえてする冒険である。それは秩序の破壊や転覆ではなく、標準を見据えたうえで、標準からちょっとはみ出る実践だ。そのようなちょっとした冒険が静的と思われがちな秩序に微かな動揺を加え、密やかに動的な性格を付与する。
夜、いつもより派手目のおめかしをして近場の街へお出かけ。奥さんにおしゃれだと認めてもらえてはっぴー。この前気に入ったお店の系列店に行ってみる。お酒も料理もたいへんよろしく、大満足。そのくせカラオケまで行っちゃって、さらにはピザまで食べちゃう豪遊っぷり。ピザは余計だった。というか一軒目がよすぎて、粗が目立ってしまった。せっかくなのでぐるりを散策してめぼしいお店をあれこれ探索し、公園をひやかしたりして帰宅。お風呂にゆっくり浸かって、さいきんは毎日入るようにしているが、やはり毎日の方がよい。外食して服薬が入眠直前になってしまったので、実験的にキヨーレオピンは抜いてみる。はたして。
