2026.04.18

伊多波宗周『社会秩序とその変化についての哲学』。松永澄夫の仕事への応答として位置付けられる八章。〈私〉たちは固有の肉体をもって生まれ、ある特定の価値体系において養育・教育されながら自らを形成されていく。経験に応じて徐々に変化していきながらも、〈私〉の肉体の持続は揺るがない。他者との関係において個別具体的な肉体を備えた《変わるけれども変わらない・・・・・・・・・・・・〉》1がある。この〈私〉の肉体が実行する行為は、このようにしているつもりという一人称的なものの位相からこのようなものとして解釈されるという三人称的なものの位相までつねに多重的であり、ただひとつに定位できないものである。このように〈私〉は、つねに複数の判断が折り重なるひとつの肉体で生きる。

〈私〉に対し《社会は、変わらないけれど変わるもの・・・・・・・・・・・・・2としてある。社会秩序は途方もなく強固だが、弱さや脆さもないわけではない。

まず、知覚世界へと影響を及ぼす行為によって社会秩序が変化することがありえる。それは、知覚世界を変化させる行為を反復可能なものとする技術の発明、伝播、普及を通して〈私〉たちの生きる社会の秩序の変化を促すものだ。反復を旨とする技術とは、反復を可能にするための規格を要請し、効率のために社会自体がその規格にそぐうように変化するよう圧力をかける。技術の発展に伴い社会のありようも変化し、それにつられて〈私〉も変わる。このような技術決定論だけではしかし片手落ちだ。技術を介した標準化による秩序変化ではない、反復不可能な〈私〉からありえる秩序変化とはどんなものでありえるだろうか。そう松永を読む伊多波は問う。

肉体という物質的側面は、他の〈私〉と共通の物理法則の規定を受けている。この物質的側面のことを知覚世界と呼び、必ずしも物理的に不可能なわけではないことを許されなかったり認められないことであるとして制限する社会秩序の層と区別をする。間違いなく共通の知覚世界の秩序に対し、社会秩序は、共通と言ってもよい・・・・・・意味世界のそれであると定義される3

意味世界には、複数の体系がありえ、さらにそれぞれの体系に複層性がありえる。〈私〉の「自由」とは、まずそれらへのスイッチ可能性のことである。また、秩序変化とは、秩序そのものを抜本的に変化させることではなく——そんなことはありえない——たとえばその上部に別の秩序を重ねることで重層化することでなされるものだ。

伊多波は、このように別の秩序を重ねが消されるおおもとにある秩序、いわゆる社会的秩序のことを基層的秩序と名指す。その上に重ねられた新たな秩序は、基層的秩序によって規定されるためまったくの別物というわけではないが、基層的秩序の側に変化を促すこともありえる。前提となる秩序に別の秩序を重ねていくことで、社会は変わらないけれど変わる・・・・・・・・・・・。変わるわけでもなく、変わらないわけでもない、このなるようになるという考え方こそが大事だ。

哲学もドレス選びも、もとからある秩序——基層的秩序——を踏まえたうえであえてする冒険である。それは秩序の破壊や転覆ではなく、標準を見据えたうえで、標準からちょっとはみ出る実践だ。そのようなちょっとした冒険が静的と思われがちな秩序に微かな動揺を加え、密やかに動的な性格を付与する。

夜、いつもより派手目のおめかしをして近場の街へお出かけ。奥さんにおしゃれだと認めてもらえてはっぴー。この前気に入ったお店の系列店に行ってみる。お酒も料理もたいへんよろしく、大満足。そのくせカラオケまで行っちゃって、さらにはピザまで食べちゃう豪遊っぷり。ピザは余計だった。というか一軒目がよすぎて、粗が目立ってしまった。せっかくなのでぐるりを散策してめぼしいお店をあれこれ探索し、公園をひやかしたりして帰宅。お風呂にゆっくり浸かって、さいきんは毎日入るようにしているが、やはり毎日の方がよい。外食して服薬が入眠直前になってしまったので、実験的にキヨーレオピンは抜いてみる。はたして。

  1. 198頁 ↩︎
  2. 199頁 ↩︎
  3. 204頁 ↩︎
柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。