昨年の春以降なにが損なわれたかって、「よそ」への信頼だ。駅の構内ですれ違うマスク非着用のおっさんが皆セクシストでレイシストな最低人間に思えてくる。会社で大声で話すことをやめられない人たちがそのまま病原菌に思えてくる。これまでよくも悪くも最悪だと思っていた国民国家とかいうやつは、もっと悪い超国家的機関とまともな交渉すらできないまま国民の生存を危険に晒す。
特に都市型生活というのは、ふらっといつでも「よそ」へ出かけていって気晴らしができるという、部屋の外への信頼によって担保されていたのだと思う。いまでは「よそ」との交歓の場が、すべて飛沫の交換というあたらしい意味によって塗りつぶされているように感じる。「よそ」との出遭いはつねに危険ではあったが、危険を冒すという興奮や、それでもほっとできる心地よさもあったのだ。日々の楽しさとはちょっとした危険を冒すことにあるのだから。現状では、「よそ」との遭遇の一要素である危険だけが前景化している。ただリスクだけを取りたい人などいない。しかしリスクも取らずに得られるもののなんと退屈なことだろう。近代以降、社会の仕組みから日々の具体的な営為まで、あらゆるものを人為によって構築してきた人間は、そのような構築性によってほんらい予測できようもない将来を建設的に計画できるようなゲームの場を用意してきたのだと言える。そのようなゲームは、完全ではないにせよある程度のシステムの安定性を前提としているからこそ、プレイの楽しさの欠かせない要素として危険を冒すことがありえている。「よそ」への信頼の毀損は、このゲームの基盤そのものへの不信にも繋がりうるから致命的なのだ。ここは野球場です、という共通認識が機能しなくなる時、バットはほんらい潜在的な凶器としての可能性を前景化させる。
近代、あるいは社会というフィクションを、フィクションとして大体の人が信じているからこそ、近代や社会というものは実在しているかのように機能しうる。フィクションなら嘘なのだからぶち壊せばいい、という短絡は、いまのフィクションのダサさを考えるとわからなくはないのだけれど、それでもやはり短絡に過ぎないと思う。フィクションはフィクションとして信じ抜くほかなく、信の強度が揺らぐ時、「現実的」などと嘯きフィクションがフィクションであることすら自覚できない横着者たちによって、現状のダサさが拡大再生産されることになりがちなことを、おおまかな歴史の把握を通して知ることができる。
明日は今日と同じような仕組みで動いている、と大多数が信じているからこそお金や言葉を介して交わされる約束も機能する。「よそ」がリスクとしてしか感じられなくなるということは、きょうの野球選手があすはトランペット奏者であることを求められるような事態へとわりと簡単に接続してしまうとわりと本気で怖くなっている。