2021.06.16(2-p.53)

誕生日あたりからいよいよ調子が崩れて、一週間前くらいにいよいよ最低な人間が発現した。自分の最低な部分の発露自体はこれまでもあったが、今回は無邪気に最低だったため──無邪気と最低はほとんど同義なので最低の中の最低だということだ──言語化しようにも最低なりの理路というものすらなく、自分でも自分との連続性をあまり認めたくなくて、あのときは最低でしかなかった、としか言えない。そういう状態が一週間も続くのは初めてのことで、言語化は最高というスタンスでやってきた僕は戸惑い、疲弊していった。言語化というのは要件定義には必須であるが、定義するとは明示的に固定化することでもあるから、準備できていないまま自分の最低な部分を明晰に定義してしまうとその最低さがつねに前面にべったりとあるようなことになる。言語化し過ぎてはいけない部分というのはそういう部分で、内省というのがだいたいにおいてどうでもいいのも同じ理由だ。けれども内省をしなさ過ぎるのも問題で、今回は僕は内省の不在が最低を引き起こしたのだと今は整理が始まっている。いつもなら例えば大きな主語──社会とか権力とか、ほんとうはそれはまったく「大きく」はないのだけれどその「大きくなさ」を見失って──にかまけて目の前の他者への気遣いを忘れかけた時に最低さが露呈するのだし、今回も表面的にはいつも通り気遣いの欠如が原因ではあるのだけど、そうやって片付けきれないしこりのようなものの正体は、今回はかまける大きな主語すら不在で、というかどんな主語であってもかまける大元の行為主体が不在で、ただ最低な行為だけがあるような状態があったという事実なのだと思う。自我の虚脱。僕は常にある程度理性的に行為をコントロールできるとなんだかんだ信じていたみたいで、そうしたコントロールの外で、他ならぬこの肉体がアホみたいな振る舞いを実行するというそのコントロールできてなさに恐れ慄いている。親父ギャグは前頭葉の萎縮により思いついたことを制御できずそのまま出してしまう現象だという話があるが、そうした自制能力の減退をリアルに感じている。三〇になったタイミングからずっといつか死ぬということのリアリティが何倍にも強まって、この自我だとか意識だとか呼ばれる領野の消失に怯える気持ちが拭えないでいるのだけど、行為の制御のできなさ、あるいは行為時の意識の不在という事態が、より一層その気持ちに拍車をかけている。

しかし理性的であることと、コントロールができていることとは、微妙に重なり合わない部分がある。僕が奥さんと暮らしてなによりも蒙を啓かれたのは、人間というのはそこまで連続性も一貫性もないかもしれないがそれでもなおそこに一本芯を通せるとするならばそれこそが理性であり論理なのだという、個人の能力を一切信じず外在化された言語という構築物のほうを信頼していくスタンスだった。しかしそうしたスタンスのすごさをきちんと理解できたと思えるのは今が初めてかもしれない。この自分が自分でなくなるような恐怖、言葉による操作をうまく制御できないどころか制御する主体が喪失するような心許なさを、奥さんは毎月内臓の剥離する痛みと共に経験している。だからこそそうした事態の起こってしまうこと自体ではなく、起こってしまった後のことを精緻に言語化することで、何度でもコントロール外へと乖離してしまう自己を取り戻そうとする、その行為にこそ焦点を当てる。僕は今回本当の意味で初めて理性的な自己の喪失を自覚できる形で経験したのだと思う。その経験を前に完全に恐慌をきたし、事態の言語化や点検ができないままに一週間ものあいだ戸惑い続けていた。

最近の日記のつまらなさの奥さんの指摘は、あれだけやらかしておきながら日記での反省と弁明が行われないままであることへの追及でもあったはずだ。今ようやく形になってきたが、その形の示すものは、これまでの状態の復元ではなく、コントローラブルではない自分という新たな自己像との向き合い方を一から模索していくことになるだろう。ここまで整理ができてきた僕が今思うのは、え、しんど、めんどくさ、なのだが、そう思う気持ちはだいぶ晴れやかだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。