わかしょ文庫さんの文章は、つねに、これは伝わっているだろうか、という不安とともに書かれているように感じる。『ランバダ』シリーズのようなZINEであれば、なんだかんだでこの本を手に取れる場所には似たような人たちが集まるのだからなんだかんだで伝わるだろうよ、という予断を読み手の側に許すのだけれど──そして逆説的に、同人作家としてわかしょさんが図抜けていたのは、もともとそんな狭い範囲に限定せずに、自分の文章を読みうる他者のレンジが広いことにあったのだと思う──、これが商業出版となるとどこにどう届くか予知できない部分もあるというか、誤配の可能性により開かれるような感じがある。そうなるとこの、伝わっているだろうか、という不安は当然より一層の正当性というか切実さを帯びる。じっさい、『うろん紀行』には、本を読む人なんてわたしくらいしかいない、というような、自意識過剰なわけでもない地方に住む子供たちのふつうの実感が忘れられないまま保持されているようだ。語り手が人に貸した本は読まれない。読まれたとしても理解されない。周囲の人間が本読みであるような雰囲気がない。この作家の文章を読むと、地方に暮らしていた幼少期の、言葉よりも肉体のほうがずっと雄弁な世界のあり方を生々しく思い出す。実生活において、本はあまりに無力だ。本を読もうが読むまいが、言葉よりも大きな何かに簡単に言葉は奪い去られていく。たとえば名前は、既存制度によってあっけなく書き換えられる。たとえば祖父は、刻一刻と言葉を失っていく。書かれた犬、剥き出しの犬を感受できるか否かは、じっさいに犬の剥き出しに晒された経験の有無によって決まってしまうのだ。
具体的な肉体を持っているわたしたちは、言葉だけでは生きられない。むしろ、肉体の具体性を前に言葉が作用できる部分は絶望的に僅かだ。だからこそ、本書の語り手は虚しい自意識をいたずらに肥大化させるのではなく、じっさいに脚を使い、めしを食い、五感で土地を受け取りながら、本を読む。言葉を介して受け取ったつもりのイメージや、書き出す前のぼんやりとした想定は、実際の土地を前に毎回裏切られる。本から読み取ったつもりのことと、実際のこの肉体が土地から感受するものがいかにかけ離れたものであるかを『うろん紀行』の語り手は何度も何度も確認する。そのたびに語り手は言葉とともに自分の現在地をも見失うかのような感覚に陥るが、そうした方向感覚の喪失から脱するためにすがる先にあるものもまた小説の言葉なのだ。
言葉は現在地の現実に作用はしないかもしれない。書かれた言葉を完璧に理解することはできないかもしれない。それでも、多くを受け取り損ねながらも読み続けることで、現在地にいまじっさいにあるこの「わたし」の輪郭のもつれを補修し、再び歩き出すことを助けることはできる。そうやっていつまでも、読み続け書き続けることでいまここにある「わたし」を見つけ出し、受け入れていく。そうするほかないのだ。
『うろん紀行』は、周りに誰も伝わる人がいないような心細さのなかで、だからこそ孤独に読み続けた経験のあるあらゆる人の、この思いは人に伝わるだろうか、というヒリヒリするような不安を思い起こさせる。そして思い出してしまったが最後。こちらもまた次の本を手に取り、読み出し、書き始めるほかなくなるのではないか。