自転車をもらった。行きは歩きで、帰りはすいすい。交番で二人の警官がかがみこんでいる。なんだろうと見てみると散歩中の犬に挨拶してる。なんだかいい光景。
ビブリオバトルで『プルーストを読む生活』が使われた動画がアップされていて、ニコニコ見る。視聴していて改めて思うのは、『プルーストを読む生活』の面白さって、なんかよくわからんけどこの世界のどこかにはやたら楽しそうに本を読んでる無名の会社員がいるらしい、というところにこそ宿っている。市場において価値となりうる差異ばかり求められている気になってしまいがちな社会の中で、ありふれた楽しさの平凡さは希望になりうる。
そう考えていくと、『プルーストを読む生活』のことを考えると僕が有名になるのはあまりよい効果はないかもしれない。いや、あるか。僕が有名になることで本が売れることはあるだろう。けれどもそもそも僕は本で儲けたいとか、名を上げたいとかはなくて、「普通」で「平凡」な生活を続けていければいい。趣味のエゴサで見つける感想の多くは、僕の「普通さ」を指摘するときにそれがさも欠点かのような書きぶりになっている気もしていて、そこに読んだり書いたりすることにまつわる根深い規範意識のようなものを感じる。もっと差異を。特別でなければいけない。そうじゃない。個人の日々の生活の異常さなどたかが知れていて、有名無名に関わらず生活は地味で華やかじゃないものだということこそ大切なのだ。体を伴った生活の具体性を見失って、抽象的な差異のゲームに興じすぎるのはナンセンスではなかろうか。僕はそういうのいらない。ほんとは多くの人はいらないと思ってるんじゃないか。それなのに特別さを欲しがってるような錯覚を持ってしまっていやしないだろうか。
本を出す前との比較で言えばもちろん多少は有名にはなったろう。そういう意味では差異のゲームである程度結果を残してからこういうことを言うのは欺瞞かも知れない。でもそれと同じくらい、僕の知名度なんてたかが知れてるという判断もある。いまの僕ではたとえば池袋手刀や駅前劇場も埋められない。その程度だ。プルーストすら知らない人の方が多い世の中で、ニッチな界隈でちょこっと知ってもらえた程度。だからまだ『プルーストを読む生活』は充分「無名で凡庸な会社員の日記」であるだろう。たぶん。自分のことだから自分で下す見積りにそこまで信頼は寄せられない。でもまあこういうことは一万部くらい売れてから心配すればいいんじゃないか。
僕の自意識のキャパをTwitter換算するとどのくらいかな。いま千でこの体たらくだから、すでに多分ギリギリなんだろう。でも、たかだか千で自意識過剰だろ、と冷ややかにツッコミを入れてもいる。Twitterのフォロワー、午後さんの四分の一だしな。もっと午後さんから流入してこないかな。僕はそうやって他人のフェイムに乗っかってく感じが理想だな。
とにかく有名無名や特殊性の多寡に関わらず、そもそも、人の生活というのはそんなに変わらないでしょ、それなのに、他人のこととなると、毎日を過ごす一個の体のなせることの限界を簡単に想像できなくなるのなんなんだろうな、というようなことを書きたかったのだと思う。
本を作って、それが誰かに届く。その素朴な喜びだけを捉えて見失わないようにしたい。そしてたくさん届ければ喜びがそのぶん大きくなるというわけでもない。ちょうどいいくらいに届けるのはしかし難しい。適正量はどのくらいなのだろうか。今はもうちょっと広く届いてみたらどうなるのか見てみたい気持ちがあるらしい。素人のまま、どこの馬の骨とも知れない会社員のまま、なぜだか少なくない人に面白がられている、みたいな状況は痛快じゃないか。そういうのを目指したい。いや、目指したいとかそういうのでも別にないな。そうなったら面白いし、そうならなくても別の面白さはいくらでもある。
