2022.05.02

昨晩日記の後にツイートをしていたら久しぶりに歯止めが効かなくて長くなりそうだったので途中から慌ててNotion に切り替えて日記として書き直した。こんな感じだ。

僕の日記を読んで僕のことを好ましく思ってくれる人に関してはありがたいと思いつつ「怖いな……」と感じてしまうけれど、主要登場人物である「奥さん」のことを好いてもらえると素直に嬉しくなる。わざわざ日記に書き残す作品や人物は魅力的であってほしいというのもあるけれど、なぜそう思うかというと、他人の目を経ることなく公開できてしまうインターネットの文章というのは、保身的に他人を腐すことが簡単にできてしまうというという意識が強くあるからだろう。「自分は特別! 他人はわかってくれないだろうな!」みたいな文章、嫌いなんだよな。社会に対する言葉の届かなさについての諦念や絶望のある文章は好きになっちゃうことが多い。両者はぜんぜん違う。前者はヒロイックな自閉で、後者は自分というものからの脱出の不可能を痛感しつつも外に向いてる。僕は非常に利己的な人間で自己愛も強いので、ほっとくと無限に他人ディスでプライドをよしよししかねない。ディスまでいかなくても、他者を「まなざす」特権性にすぐ酔っ払って気持ち良くなるだろう。そういう怖さがある。だから日記の中ではなるべく軽薄で怠惰で多動で構ってちゃんな視野の狭い愚図であることを隠さずにいたいし、それでいてそうした愚図に居直りたくもないことまでちゃんと書きたい。僕は僕が視野の狭い愚図であることは認めるし仕方がないとも思うが、僕の視野の狭さによって誰かを傷つけてしまうことには抗っていきたい。よりましな人間になるために、愚図は愚図なりにのろのろと考えを進めていきたい。日記は、僕の判断よりも大きなものへとひらかれていてほしい。それはたとえば他者としての作品だったり奥さんを、僕のスケールに矮小化せずに、異物感を残したままゴロっと書くということだ。僕が理解できているかとか納得しているかとかはどうでもよくて、あるものをなるべく自分の認識の癖や願望による歪みを最小限に抑えつつ書くこと。日記はそれができる。どうしたって僕が書いているという事実から逃れられない形態だし、読む側もここに描かれる他者が僕に書かれた他者であることを前提としてくれるからだ。ここには原則僕しかいない。だからこそ、僕は僕から抜け出るように、外に向かって書かなくてはいけない。

この日記は、特に今日の日記がそうだが、僕の自己演出臭さみたいなものも滲み出るようにしておきたい。僕の日記を読んだ人の僕のイメージが「なんだか自分のことかなり好きで、なんなら可愛いとまで思っていて、可愛さや賢さはある程度事実で、そのことを本人もわかってるからセルフプロデュースが上手な、なんかくそおもんないやつ」であるはずで、なぜなら僕がそのように日記上の僕を演出しているからなのだが、じっさいのところどうですか? 当たっているでしょう?

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。