2022.12.07

二〇二〇年の春から、ずっと例外状態だという気分があって、己の停滞を例外的な一時停止だと思えてしまう。でもそれからもう二度目の年越しが迫っていて、いまだに僕があらゆる判断を保留にしているあいだに、多くの人は着実に二年ぶん各々の向いている方向に進んでいるような気がして焦る。僕だけがどこにも行けないまま、ただ二年ぶん歳をとった。じっさいはそんなことまるでないはずなのだが、僕だけが置いていかれた、とめそめそする。

『魔入りました!入間くん』アニメ一期を観終えた。じわじわ好きになってきた。クララかわいい。理性の制御がこちらの想定とはべつの形で作動してるめちゃくちゃさにどうしても惹かれてしまう。めちゃくちゃな人間社会への過剰適応によって虐げられてきた少年が、魔界ではじめて自分で選んだ友人関係の相手として、クララはあまりにぴったりなのだ。察しもよく気も遣える僕は、とても簡単に社会化されてしまうので、天真爛漫な他人に振り回されてめちゃくちゃにされたい欲望がある。でもめちゃくちゃになっては困るので、フィクションで見るのがちょうどよくすっきりする。

業務中は個人でなく立場でものを言うから気楽なものである。個人の信念と、配置された立場とのあいだの齟齬を誠実に検討しない限りにおいては。組織上の立場としての言動に、個人としての倫理を問うても効果がないのは、非道なことをしでかしてしまった組織人はおそらく誰ひとりとして「私は私個人としてこの行為の主体である」というふうには考えていないからだ。だからこそ、組織のなかで屈託なく個人としてふるまう横暴に出くわしたとき、組織は大きく動揺する。会社にはクララのような存在が必要なのではないか。多くの職場は破綻するだろうが、クララをクララのままに野放しにし、それでも平気で残る組織が一つでも残ればそれでいいではないか。もうぜんぶめちゃくちゃになってほしい。

露出の本は、「表象」とは「目の前にないものを、それとは別のもので代理し、表すこと」だと定義し、「提示」と対比させる。あけすけで直示的なものばかりで、遠回しな隠喩が足りないのだと。人の心は隠喩における「目の前にないもの」と「それとは別のもの」、そのあいだに宿る。そうであれば、全面的な露出は心の不在という事態を引き起こすほかないだろう。意味なんかないさ暮らしがあるだけ、そこには心の居場所がないのだ。意味と暮らしのあいだに心はある。プラグマティックな生活の知恵は、意味を無用のものとして捨て去り、心の置きどころをどこかへやってしまう。意味が足りない。意味などないのかもしれない。意味などないだろう。それでも意味らしきものを生産し続けなければ、僕たちはますます剝き出しの身体だけになっていく。その身体をまだ「人間」と名指せるだろうか。そんな話で、楽しかった。最終章で認知行動療法へのパラノイア的敵愾心が露わにされるところで笑ってしまう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。