2022.12.06

『露出せよ、と現代文明は言う』を読んでいて、年寄りの若年層への揶揄っぽさにほのかな苛立ちを覚えつつ、誰もがいつまでも「若い」世においてこういう口うるさい老人は貴重だ。

人には二つの身体がある。生理的な機能の集合である生物学的身体と、言語や心理の現場となるエロース的身体。後者の迂回するような性質はどんどんと居場所を失い、前者の直接的な反応が多くの場を占めているという状況分析を面白く読んだ。エロース的身体とは文明であり、思考の基盤だ。これは言語によって構築されていく。だから生理的な快が簡便に満たされる状況の中で、言葉が貧しくなればなるほど、人はむき出しの情動と肉に近づいていく。むき出しの情動が危機に瀕したときその軋みが心身症の形で現れる。

叶うことのない欲望への、果てしない迂回の継続としてのエロース的身体の思考。この迂回はフロイト的文脈では抑圧と名指される。抑圧は無意識の前提であり、ここでいう無意識は神経症の基礎である。

生物学的身体の思考とは、言語による抑圧を介さない反応にちかいものだ。これは丸出しの裸やすっぴんのようなもので、エロース的身体における言語を使用した思考という服や化粧をほどこしてはじめて人間らしい存在になるというのが近代の人間観だ。

現代の臨床の場から神経症が退き、心身症が増加している状況は、文化的に自らを飾りすてきにメイクした身体よりも、すっぽんぽんの生身をこそ人間と捉える人間観の蔓延を象徴しているのではないか。これが人間の動物への退行でなくてなんだろうか。誰も彼もがダダ漏れに露出する風潮に露骨に顔をしかめる著者はこのようなことを書いた。素顔よりも素敵な人間でありたいと思い、こうして日記の場に欺瞞に満ちた虚像をでっち上げ続けている僕はおおむね同調して、より誇張した形で書き換えていく。

きのうの話の続きをするならば、僕にとって書くとは着飾ったり化粧したりすることで、読むとはその表面だけを愛でることだ。インターネット上で流通しやすいテンプレートや、あるクラスタだけに通用する特殊な言語運用によって生成される親しみやすい文字列というのは、その類型的な見せかけに反して、あまりにむき出しであると感じる。そこには対象へのじれったい迂回がない。ただ直截的にみずからの情動を記述する。迂回の道行きそのものを楽しむのだと嘯く痩せ我慢こそが文化であると信じている僕にとって、その直截さは端的に下品に感じられる。

下品でもいいのだ、快はてっとりばやく手に入れたいし、気持ちいいほうがいいじゃん、という態度のほうが優勢であるような感触は、僕もやはり感じるし、やるせないものだな、とも思う。著者にあてられて、僕も愚痴っぽい老人のようになっている。いけないね。きれいになって素敵ににっこりしてみせよう。

なんかいい感じにソフィスケイトされたカルチャーの雰囲気と、親しみやすい素朴で軽やかな暮らしとのゆるい同居。それが僕の日記の化粧です。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。