2022.12.08

なんとなく思い立って本棚の整理をして、次に読む本の候補を挙げていく。軽やかなエッセイなど、と考えていると、小津夜景が飛び込んできた。

『いつかたこぶねになる日』は曲線で買って、あまりの素敵さに二編ほど読んですぐに閉じて大事にしまっておいた。またはじめから開いてみると、ひとつめのたこぶねの話、そして次の海の話がやはりとびきりで、こんなものが一つでも書けたら、と溜息が出る。海のくだりは六月の日記で引いているから、今日はタコを。

ゆうべからタコのことが頭から離れない。タコの動画をまとめて観たせいだ。タコはかわいい。しかも非凡だ。さらには孤独を愛するライフスタイルをつらぬいてもいる。タコは巣穴でひとり暮らしをし、毎日ひとり気ままにあそびにいく。道具を使って巣穴を自分らしく飾りつける。椰子の実をカプセルハウスとしてたずさえるタコもいる。

小津夜景『いつかたこぶねになる日』(素粒社)p.11-12

このあとに続く母のことばの鮮烈さ、原采蘋のこと、すべてがタコのようにしなやかで、孤独をたたえている。憧れるような文章。海が見たくてたまらなくなった。

ぐずぐずしていたからもう正午をまわっている。のろのろと家を出て、漢方薬を買い足す。そのまま電車に乗って、『いつかたこぶねになる日』をゆっくりと読んでいた。百ページに届くか届かないかで鎌倉に着いた。ずいぶん久しぶりな気がする。由比ヶ浜までの道は、上京してから結婚するまでの時期、よく歩いていた気がする。デートで、一人で、海が見たくなると手軽に行けるのがここだったからだが、引っ越しを繰り返したいまとなっては交通の便もよくないので、わざわざここでなくともよかった。

海の目の前の信号、その手前にはコンビニがあって、学生のころはそこでスミノフアイスを買って砂浜に降りて行くのが常だった。スミノフアイスはいまとなっては子供の味という感じがする。コンビニは家系ラーメンのチェーンに替わっていて、そういえば昼がまだだったから食券を買った。ラーメンと餃子、生ビール。背中に西陽にあたためられながらビールをあおって、餃子を一口でやる。家系ラーメンはスープのしょっぱさの裏に甘味があって、はじめはすこし苦手だった。いつのまにか美味しく感じるようになっていて、味覚というのは教育されていく。

満足して、砂浜の、低くなった陽が海に落とすオレンジの帯の延長線上にレジャーシートを引いてまた本を読み出す。やはりはじめの二編がとびきりだと感じて、そればかり何度も何度も読み返していた。やはり海の話も引き写しておこう。

土地というものが面倒臭いのはこういうところである。つまり、その表象が怪しい物語と結びつきがちなのだ。でも海はそうじゃない。海は人に所有されていない、少なくとも土地のようには。わたしは地中海を愛しているけれど、それは北海を愛したり、オホーツク海を愛したりするのとまったく同じで、ちょうどいま目のまえにあるこの海を愛しているにすぎない。そこにはほかとの優劣がなく、また起源も誇らない。それが海であるというだけで愛するに足る──これが海のいいところだ。仮に、人間の歴史の重みを海に見るとしても、それは海辺で生きた当事者たちの歴史を見るのであって、夢のような物語が創造されたりはしない。まっさきに海で出くわすもの、それは波が、風が、鳥が、存在を軋ませるかのような物音を立てながら、たがいの表面をこすりあわせて気配をたしかめあうといった、けっして人に手なずけることのできない無情の風景である。

同書 p.20-21

波がだらしない由比ヶ浜は無情さに欠けるかもしれない。海の表面を眺めながら、消失点の向こうにはパプアニューギニアとかがある、と考えた。

いよいよ水平線上に陽が落ちるころ海岸には俄かに人が集まってきて、みな思い思いに夕日を眺めていた。夕日に吸い寄せられるように集まったのだと思ったが、僕が波の音だけ聞きながら読み耽っていたから周りに気がつかなかっただけかもしれない。男児たちが砂の上に土俵を描いて、はっけよーい、のこった、と威勢よく声をかけた。四人くらいが交代で相撲を取る様子を見ながら、保坂和志の小説に出てくるような子供たちだ、と思った。海のすぐ上に雲が群れていて、だから陽は早々に隠れたけれど、雲ごとあかあかと発光させてまだ粘る。いちおう落ち切るのを見届けて、振り返ると大きく丸い月がある。なんとなく頼もしい。また電車に乗って帰った。帰り道では明日からの身振りを点検するような気持ちで岡田育『我は、おばさん』に切り替える。与える側になりたい、このごろそんなことばかり考える。電車はとても混んでいた。何本か見送る。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。