放置しかけているニュースレターを準備しようと思い立ち、この時期なので今年の活動をまとめてみようと思って列挙してみる。ZINE が二冊に寄稿が三本、イベント登壇やラジオが三件。ぼちぼちやったなあ、と感心する。特に寄稿はやっぱり誇らしいような気持ちになる。誰かに求められたということだから。
いちど寄稿の味を覚えてしまうと、発注どんどんこい、俺は売れたい、もっともっと有名になるべ!と助平になっていきがちだが、ほんとうに売れたいのかというとそうでもないというか、マイペースに楽しく生きていければいいな、と思う。それでもやっぱり依頼があると嬉しいし、やる気も出るので来年もあれこれとお誘いがあったらすごく嬉しいなと思っている。
寄稿は嬉しいし楽しい。どんどんやりたい。もし問題があるとするならば、それは僕がどれだけ欲しがっても発注があるかないかは自分でコントロールできないというということではない。文芸誌に寄稿してから、自他ともに「無名の平凡な会社員」を称するのが難しくなったな、という実感のほうが難問だ。さすがに商業流通する本が出て、文學界に原稿が載って、なお「無名で平凡」を自称するのはいやらしい気もする、でも、実態としてはいまだにじゅうぶん無名で平凡なんだよな、という風に、自意識と実態が乖離しているようでうっかり一致してしまっているような、微妙な状態にあると感じている。
僕の日記本は、「どこの誰とも知れぬ会社員の日記」だから面白いわけで、へたに柿内正午という名前が前面にくると、もう面白くないんじゃないか。でも、世間的にみたらまだまだ誰も知らない埃のような存在なのだから、いまでも「どこの誰とも知れぬ会社員の日記」でありうるのでは、などと悩み、もう日記本はやめようかとも考えていたのだけれど、奥さんと話していたらたいへん愉快なプランを提案してもらった。おそらく懲りずにもう一冊は作るだろう。
ここまで書いてみて思うのは、僕はどちらかというと売れたいのであって目立ちたいわけではないということだが、本というのはどうも目立ちはしても売れないものなのではないか。この傾向はSNS以降により露骨になったのではないかと思う。社会的イシューを真摯に取り上げた本ほど、読みもしないであろう外野からのルサンチマンや敵愾心を呼び起こしやすいように感じる状況を何度も目にした。
たとえば僕自身、何かの本の増刷がかかったというような広報に触れたとき、景気がよさそうに見えてもたかだか数千部だろうからそれで何年も遊んで暮らせるほどではないだろうとわかっているのに、どうしても「キラキラした成功」のように羨ましくまなざしてしまうところがある。
本が一万部くらい売れたり、毎月のように原稿依頼があったりすればこうした悩みはなくなるので、やはり売れたほうがスッキリするかも。でも、いまみたいに半端なところでモヤモヤしてるほうが自分らしいようにも思ってもいて、というのも本当のところ売れるのも目立つのもあんまり興味なくて、ごきげんに制作ができていればそれでいいようにも感じているというのも虚勢でなくそうなのだ。でも、めちゃくちゃに売れたら大はしゃぎするだろうなあ。大はしゃぎしてみたいなあ。
