じぶんで手を動かすよりも、人の手を動かすほうが面倒だ。会社での労働の大半は、ひとりではできないことを実現する多くの手を混乱なく動かすための調整であり、面倒くさいのもこれである。いざ手を動かし始めてしまえば、あるのは行為だけだから他者と関わり合う煩わしさはない。行為の手前で要請される膨大なお膳立て、認識合わせ、根回しのもどかしさ。このもどかしさを苦労と思わず、誰かの手の動きやすさを慮ってあれこれと先回りして世話を焼けるかどうかがある種の仕事の適性を決める。
自分で手を動かしていないと仕事している気にならないという人は多い。そういう人の手を動かす用事をでっちあげることだけしていたい人もありふれている。両者を媒介する通路を整える仕事に携わっている人が、両者よりもうんと沢山いる。「やりがい」も「クリエイティビティ」も感じないまま、つつがない業務遂行のためのメンテナンスを黙々とこなしていると、いっそどちらかの極に振り切ってしまいたい、という思いが去来する。それでも、おそらく僕は会社では今のようなことだけやっていけたらそれでいいようにも感じている。今やっているのは掃除や換気のようなものだから、すくなくとも続いているかぎり終わるということがない。
自分でZINE を企画して制作すると、一見華やかに見える本づくりもほとんどの時間が地味な準備や調整に費やされていることを思い知る。けっきょく人の生活の時間の九割は、代り映えのしない退屈な反復なのだろう。
この地味さを引き受けない限り、自分のスケールを超えたなにものかを作ることができない。
寝る前に奥さんと『柄本家のゴドー』を再見。やはり楽しい。柄本明の「具体!具体!具体!具体!具体!具体!」という連呼に体が喜ぶ。なぜだか始まってしまったものは、続けなくてはいけない。良くても悪くても、続けないといけない。何かを言うとは、言えないということに気がつくことだ。言葉が体にフィットしているかしていないかなんて、言やあわかる。フィットしないのなら、フィットするまで何度も何度も何度も何度も繰り返すしかない。それはおそらく毎日やるんだな、とにかくな。一生懸命言う、一生懸命言う、一生懸命言う。「考えてみりゃ」というのは「考えてみりゃ」ということだからね、うん、うん、もっともっともっともっと言わないと。稽古場の柄本明はとにかく同語反復だ。その姿は公園でのインタビューでは抽象化した明晰さでリニアに語れる柄本明と対照的だ。稽古場には具体しかないからだ。考えるしかない。考える考える考える。稽古場は具体を考える場所。聴き、話し、考える場所。とにかく具体を捉え、それを出せばいい。それだけなのだ。うん、よーい、ハイ。
