2022.12.28

いつだか堀井美香の番組に出ていたみうらじゅんが「人間は量に弱い」というようなことを言っていて、至言だな、と思った。僕は大きな本屋の棚や分厚い本をみると嬉しくなってしまうし、僕の知らないコンテンツをたくさん消費している人を見ると感服してしまう。量というのはそれ自体でなにものかである。

僕の日記は一年で50万字前後。本の形にするなら組み方によっては三冊分くらいにはなるんじゃないか。『失われた時を求めて』の日本語訳は400万字ほどだというから八年書けば文庫本で十冊とか十三冊とかになるということだ。日記をこうして書きだして、えーと、四年だか五年経っている。日々書くことは内容も行為自体の負荷も大したことない。だから毎日ホームページにアップしている日記は単体でみてもどうということはない。それが本の形にまとめてみると、量それ自体が意味を帯びてしまう。すくなくともこいつはこれだけの量を作ったのだ、という事実なのだから、量はただそういうものとしてある。継続は力だというが、これは継続がどこか狂気を想起させるからで、「こいついつまで続けるつもりなんだろう」と人を怯ませる謎の説得力をもってしまう。僕はシュヴァルの理想宮を思い描きながら日記を書き始めた。いつか量で圧倒できたらいいなあ、と考えながら日々淡々と書いていこうと思っていた。ただ毎日書くというよりも、未来の理想宮をぼんやりと目論みながら進めていたような気がする。

ただ、わりと早い段階で量によって毎日の行為が作品へと変容していくことへの期待みたいなものは忘れてしまって、こうして久しぶりに思い出したころにはすでに自分でも呆れてしまうほどの量が積み上がっている。日記を書き出す前に考えていた達成のようなものはなく、量は事後的に発見されるほかない。

目的を失念したときにだけ達成できるものというのがある。行為自体に没頭し、行為自体に自足していると、事後的になにかしらの塊が見出されることがある。この塊を作品としていいのか微妙な気持ちでいたが、塊はじゅうぶんなにものかではあるよな、と思えるようになってきた。というか、自分で自分の量に説得された。量というのはすごいのだ。

仕事納めした奥さんと『きみの鳥はうたえる』を観て、観終えたあとこのシーンが、このカットがすごいんだ、と何度も巻き戻してあれこれと喋る。オール明けのやよい軒のにおいがした、と奥さんは言う。もう自分では無理だけど、この映画があれば始発を待つ味噌汁の味が口のなかに広がるからいいや、と。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。