2022.12.27

日記よりもツイートのほうが気楽であった時期もあるし、いまも公開する戸惑いというか正当化の必要は日記のほうが感じるがこれは妙なことだ。

円城塔が訳す小泉八雲の『怪談』を楽しく読んでいる。「オシドリ(北京ダック)」の記述に混乱した。え、アヒルじゃなくても北京ダックではあるのか、これは「さつまいも(フライドポテト)」みたいなことじゃないのか、なんなんだこれは。

『きみの鳥はうたえる』を観る。家にスクリーンとヘッドホンを用意してから映画館を逃してもある程度映画を映画として受け取れるようになってとても嬉しい。主演の俳優が三人とも素晴らしい。あらゆる表情が正しくて、見惚れてしまう。クラブやカラオケでの石橋静河ののびやかさ、柄本佑の甘ったれた口元、染谷将太のまつ毛が落とす影。染谷の優しい顔から滲み出る世界への殺気のようなものがスクリーンに映し出されるたびにドキッとする。脇まで含め誰もがとてもいい芝居で、特に山本亜依という俳優を僕は初めて知ったのだけど、この人が決意と怯えを讃えた目で相手に挑みかかるように見上げるショットのかけがえのなさにくらくらしてしまった。なんて顔をするのだろう。ほんの数秒の表情に、あったりなかったりする酸っぱかったり苦かったりするあらゆる青春の記憶が呼び覚まされるような、あるいは、お酒を飲んだあとに二人でうだうだと引き延ばす時間のエロさを喚起するような、屈指のシーンを作り上げていた。ここだけ繰り返し四回観てしまった。

すべての俳優の演技が抜群なのだが、それでも映画の主役は函館の景色だ。朝帰りの空気の澄みっぷり、夜露を含んであまやかなアスファルト、終電の窓、卓球台を照らす薄緑の電球、青くたゆたうクラブの壁面、遠景に黒く沈む海と山。どんな台詞よりも情景が語り、俳優の発声や所作は風景に寄与するために行われているようだった。たとえば濱口竜介の映画は、あの戦略的な棒読みによって個人と個人のあいだの重力の作用を図式的に取り出すように、作為によって人間の「ほんとう」を引き出す映画だと思う。三宅唱は個人をビルや電球や水辺や太陽や夜といった風景の諸要素と区別せず、等価に配置し、それぞれに固有の表情を捉えるために淡々と支度を整えて出来た映画だという印象。意図よりも予感に任せて準備する地味さと、それを支える強固な他者への信頼を感じる。より具体なのだ。映画と小説はとても即物的なものだから、具体の強さがものをいう。人がある風景のただなかに存在していること、記憶は個人の身体と空間とのあいだに宿ること、光や風そして他人、あらゆる他者との間には隔たりがあり十全にわかりあうことはないのだということ。映画で表すべきことは、ほとんど小説のそれと重なっていて、優れた小説を読んだあとのような爽やかさが残った。映画っていいなあ。

夜は『怪談』、『苦海浄土』をちゃんぽん。風景への感度が冴えていると、観たり読んだりするのがとても楽しい。感覚を研ぎ澄ます作品というのがあるから、僕でもたまにそういうときがある。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。