2023.02.09

歯の色素沈着がまた目立ってきて、奥さんの前で笑うと奥さんは前歯の黒ずみをめざとく見据えてくるから意地悪だと思う、いや、思うがそうではない、僕の歯が黒ずんでるのがよくない、奥さんの視線を誘導する黒いしみ、その視線誘導に好悪はない。ともかくこのままではもう人前で笑えない。歯医者に行かないといけないが、前に行っていた歯医者は待ち時間がゼロの代わりにこちらも口内環境処置RTA の要素としてだけ扱われるので僕は人でなく口としてだけ扱われるから話もしてくれないし、説明も唇の二センチ先で落ちるような早口でよくわからない、はやく帰ってくれ、ということだけわかる歯医者で、歯の黒ずみをとってほしい、と頼む間すらなく歯石をゴリゴリ取られて口の中が血みどろになり、また次回と来てみたら奥歯を削られて詰め物をされた、次こそ色素沈着をどうにかしてもらおうと思ったがこの忌々しい詰め物が三度も取れて、そのたびに詰めるだけで処置が終わるからいつまで経っても取ってくれない。三度目に詰め物が取れたところで歯医者なんか二度と行くかとおれは決めたのさ、リプス・你媽的・大便!

それなのに色素沈着は日に日にデカくなってきやがる。いい加減歯医者に行けと言われてそんな正論、ピカピカの正論、清潔に磨かれて非の打ちどころのない正論、なんの反証も許されず家の外に蹴り飛ばすような正論、だからおれは途方に暮れて寒空の下とぼとぼと歩くはめになったのさ。歯医者嫌いなのにちゃんと予約したけど嫌いだから行きたくなくてD.O とか聴いて気持ちをワルにしてる。D.O は歯に一家言あるだろうから。俺は歯医者なんか怖くないさ、馬鹿にされたって構わないさ、口のなかガチャガチャやられんのが怖いなら鍵をかけて部屋にいりゃいいだけだ。

予約時間まで歌うぜ。

「トゥトゥトゥルットゥ トゥトゥトゥルットゥ トゥトゥトゥトゥトゥトゥトゥルルルル トゥトゥトゥルットゥ トゥトゥトゥルットゥ トゥトゥトゥトゥトゥトゥトゥルルルル トゥトゥトゥトゥトゥトゥトゥルル トゥトゥトゥルットゥ トゥトゥトゥルットゥ トゥトゥトゥトゥトゥトゥトゥルルルル トゥトゥトゥトゥトゥトゥトゥルル トゥトゥトゥトゥトゥトゥトゥルルルルー!!」

恐ろしいオブジェが眼科の患者や手遅れの亡者どもを睥睨している。それに恐れをなしたように大人しくスリッパをスリッパをスリッパを履く。ずいぶん待たされる。受付の愛想が無だ、むしろ無ですらなく、無にすら「否(ニェット)」を突きつける、徹底した「否」が冷え切った椅子の上に座っている。顕現した「否」はおれの保険証をひったくり、なにやら紙に書きつけて、キーボードで打ち出していく。一時間が経ち、さらに一時間が経った。立たされたままの俺の膝は笑いだし、受付の「否」は眉ひとつ動かさなかった。人間が病というものを発見してから、病院において受付と医者の愛想は逆相関の関係にあると定められているのでここがいい医者であることはすでに約束されていたが、とうとう自分の番がまわってきて、ほとんど寝そべるような姿勢を強いてくる不躾な椅子に尻がつくかつかないかのところでおれはすでにべらべらと話し始めていた。

「あのねえ、先生。先生には想像もつかんでしょう、僕が、どれだけ僕がこの国の……耐え難いほど不快な……原則それは、つまり血も涙もない……動物から思考を剥ぎ取る偽善、同志たちの疑心暗鬼……つまり官僚主義にうんざりしていることか! 前にも歯医者にかかっていたことがあるんですよ。ええ、本当です。そのときも、僕は模範的な患者であろうと勤めてきました。なにひとつ、治療のさまたげになるようなことはすまいと、誓って! 荒川の流れに誓ってそうなのです。僕は舌どころか息すら止めて白痴のように口を差し出しましたよ、ええ、しかしこの歯医者というのがとんだ卑劣漢でして、こちらの従順な善意を──クワスかなんかのように飲み干しあまつさえうがいまでしやがった! あなたもそのようなごろつきだと言うわけじゃありませんが、僕は僕の奥歯が限りなくCだってことは了解してるんでさ、ええ、全くの斜線だなんて言いませんよ、でもね、僕はとにかくこの前歯にまで広がる、この、クソッタレな色素沈着をどうにかしてもらいたいんで! それだけなんでさ! へ! へ!」

「いったいなんのことです? いったいなんの真似事のおつもりなんです! こんな、みっともない。できそこないの猿芝居だ!」

医者は僕の口に飛びかかり、銀色の棒を突っ込んで檸檬味のスプレーを噴射した。口のなか、あらゆるところに出しまくった。射出の勢いはものすごく、口のまわりだけでなく俺の顔中は檸檬味の霧でビショビショになり、医者の顔を保護するアクリル板もぐっしょりと汗をかいている。これだから歯医者は! おれは涙と鼻水を飲み込まないように気をつけて三度うがいをした。三度もだ

それで医者は厚かましくも手鏡を差し出してくる。人様の口を人工甘味料の臭いで汚して、それで鏡だと? 俺の舌が下品にレモンキャンディをしゃぶったあとみたいに黄色くなってるとでもいうのか? なあ、モン・プティ、やさしいごろつきさん。そこには、すっかり色素沈着の除去された、洗いたての便器みたいな俺の歯があったよ。今日ばかりはお前のアクティブな友を祝福してくれ。私の優しい坊や。

「ええ! わたしにはわかっておりました。あなたこそがこの煉獄のような状況からわれわれを連れ出してくださるお方だってね! 歯から黒ずみを取るには尖った金属でキュィイイインとみっともなく痛めつける必要なんてなかったというわけですな。あなたは思慮深くもただ甘ったるい液を思い切り吹きかけるだけでことをお済ませになった。これはまったくとんだ時代精神ですな! 痛みも刺激もなくそいつを取り除けてしまうのだから! イワンの旦那は言うんです、神が存在しないなら全てが許されるってね。しかしわたしにはわかっておりました。歯医者がいなくても虫歯は存在するってことをね! ああ、これでわたしの心配事はすっかりなくなったよ、これはまったくすばらしいキノコだ! さあ、お医者さま、その手に口づけさせておくれやす!」

「それではまた来週いらしてください。お会計はあちらです」青褪めた顔の歯医者は静かに待合室のほうを指さした。

それで家に帰って大きな口を開けて笑い続けていたというわけだ。きょうはこれでおしまいだよ。リプス・你好。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。