敗戦後、当時は浮浪児と呼ばれていた戦災孤児がひとり、小板橋家を戸口に立つ。土間と表の路地を仕切るガラス戸を二、三十センチほど勝手に開けて無表情な顔をのぞかせ家の内側へひらいた手を伸ばす。男手はなく母一人で支えていた一家は三度に一度や二度欠食するような状態で、ほんの一箸分を手のひらにのせてやれるかどうか。それでもその一箸分をあてにして、毎日のように子は来る。大晦日も近い厳冬のころ、自分の子どもにすら満足に食べさせられない情けなさを振り払うように母はぴしゃりと戸を閉め追い出した。その翌日、著者は新中仙道沿いのガソリンスタンドのコンクリートの上に仰向いて横たわる彼を見出す。
きのうまでのあの無表情な顔がいつもとひとつだけちがっていたのは、焦点のさだまらないまま遠くを見つめている両眼の目尻から、それぞれ外側に向けて両方の耳の穴にいたるまで涙のあとが続いていたことであった。
栄養失調、飢え、凍死……。そんなふうにして死んでいった子の涙はこんなふうに干からびるかと思うほど、その涙の跡は、氷雨の中にさらした顔だというのに、白く乾いた軌跡となって左右の耳の穴にまでナメクジが這ったように残されていた。
小板橋二郎『ふるさとは貧民窟なりき』(風媒社) p.165-166
世界思潮社のWEB に藤原辰史「切なさの歴史学」という講義録がある。僕はこの引用を読んでこの本を図書館で取り寄せたのだった。この章は母がどこかで見た芝居から借用する「千兵衛万兵衛あるなかに、一兵衛とは情けねえなあ、半兵衛」という地口で締めくくられる。折口信夫が釈超空名義で貧しさの過酷さを描いた歌は確かに人の胸を打つ傑作かもしれないが、あくまで外部からまなざした歌である。その貧しさのただなかにある者がそのような感性でみずからの境遇を認識するわけにはいかない。つぶれてしまわないように、したたかな楽天性を維持することこそが、最大の武器になる。別のところではこうも書いている。
(…)釈超空風の感性でお読みになるのではなく、スラムの渦中で育った少年の立場からの記述だということをまず読者にご理解いただきたい。一見とんでもない悪童、いまなら非行少年ということになるだろうが、なに、現実は森のなかでの子猿の生態のようなものだと思っていただかないと筆者の天与の品性が疑われる。
同書 p.168
当事者のこの楽天性を見誤ってはいけない。なけなしの抵抗としてのユーモアを鹿爪らしい正しさで糾弾するのはあまりに粗暴な行為であるのだから。深刻な状況では深刻な顔をしていなくてはいけないという抑圧ほど怖いものはないというか、深刻なときに深刻な顔なんかしていたらますますどん詰まってしまうではないかということへの実感があまりに欠けている。明るさこそが事態の切迫を示すということはありふれている。
昼休みに会社を抜け出して電車に乗って機械書房に伺った。開店前に棚にあって、もし非売品でなくて、自分が行くまで残っていたら買おうと決めていた『砂丘律』がまだあったので嬉しくなって買う。販売当初に気になりつつも流しているうちに絶版して高騰してしまった本。文庫化もされたけれどこの本の形が好きだった。そのほかにも数冊買って、岸波さんが出してくれた珈琲を飲みながらすこしだけおしゃべり。
仕事をしながらラテラルでの高森順子×松本篤×スズキナオ座談会「読んで、聞いて、本にする」のアーカイブを聞く。今週末のスズキナオさんとのイベントが楽しみだった。蟹の親子さんに会えるのも楽しみ。翌日のイベントは昼からだから、飲み過ぎないようにしないと。
