小板橋二郎がよかったので、久しぶりにがっつり本を読みたい気持ちが湧いてきている。関西には分厚い本を一冊だけ持っていくつもりで、『チェヴェングール』だった。先日東京堂書店で買ったのだ。丸背も、カバーの魚も、本体の黄色さも、いちいち可愛くて、フェティッシュな動機で購ったのだ。チェヴェングールが何かも、プラトーノフが何者かも知らない。なにやら話題の本で翻訳の賞も獲ったとのことだがあえてろくに調べもせずに読み始める。今日はひとまず100ページほど。最初の80ページほどの綿密な飢えと窮乏の記述の積み重ねから一転、革命の記述の唐突なそっけなさと共にまったく異質な速さが現れてくる。そのあたりで止す。これをもっていくので間違いないだろう。あいまに双子のライオン堂の『電子と暮らし』も読む。お風呂では『エニグマをひらいて』を少しずつ。稜線の意味を調べる。藪漕ぎなど、馴染みのない世間の語彙はそれだけで面白い。とにかくやたらと読んでいた。それでももっと何かを読んでいたいという気持ちに急いていた。
家にあるスズキナオさんと蟹の親子さんの著作をかき集める。なにもしていないのに本が家の中で行方不明になるから不思議だ。なんとか全部見つかって、パッキングする。タイルや下着、薬に充電器、『会社員の哲学』の束も鞄に詰め込む。だいたいの荷物の規模が知れて安心。あした仕上げれば万端だろう。ちょうど明日から明後日にかけて大雨らしく、前の週末の台風で新幹線が止まっていたのを想起する。ぶじに辿り着けるといいけれど。履いていく靴に悩む。いっそ今のNAOT を履き潰す気持ちで行ってしまうか、雨靴を履いていくか。たぶん前者になる。東京に戻ってきたら修理に出そう。
さいきんTwitter の検索結果にブロックやミュートしたアカウントが表示されるようになっていて、いよいよ僕のエゴサ生活もおしまいなのかもしれない。MacBook のSafari からだとそうなのだろうか。無名な素人のほんのささやかな制作にとって、感想はひとつひとつが光であって、心細いとも思わずただ内発的な楽しさに準じて本を作っている身としては誇張抜きに麻薬的なものである。これがなくなったら目も眩むような快楽が失われてしまうが、淡々と作り続けるにあたってはそのほうがいいこともあるだろう。しかし僕は今になってもっと注目されたい、人を集めたいと考えるようになっているから、個人規模でどうにでもできる広報やマーケティングのツールが機能しなくなるとずいぶん難儀である。思うに僕にとってTwitter とは検索であった。これがダメになってしまうともうどうにもならない。
あす同居人が出ていく。最後の夕食はローストビーフ、マッシュポテト、にんじんと大根のスープ、バゲット、白身魚のカルパッチョ、パプリカのマリネ。食後にリビングのテーブルを端に寄せると、部屋の広さが際立った。これからは二人で家のことをやらないといけない。これまで随分と面倒をみてもらっていたから、独り立ちにちかい心許なさを感じている。
