2023.07.11

復活したしいたけ占いの蟹座の記事を読んで──たまたま流れてきたリンクがこれだった──、なんだかずいぶん励まされるような気持になったので自分の双子座も読んでみると再び褒めてもらえたようなうれしさがあって、それからべつのもいくつか流し読みしたがどれも見事におだてられて気持ちよくなる。これはやはりすごいものだと思う。星座は一種のアリバイに過ぎず、とにかく同時代人の大枠が共有しているであろう欲望を上手に掬い取る手つきの鮮やかさよ。これは揶揄ではなくてほんとうにすごいことで、僕もこの日記やかつてはTwitterなんかでも、いまの経済や情勢下で生活している人たちの多くが共通して凝っているであろうポイントを推量してマッサージのような言葉を吐くことがあるが、これがきちんきちんと八割がた目論見通りにヒットするというのは並大抵のことではない。しかもそれを十二通りも長文でつくるのだ。あれ、十二は干支か。星座は何個だっけ。「星座 何個」で検索すると国際天文学連合によって公認されているものは八十八個だそうだ。へえ、そんなもんなんだ。じゃあ誕生日のやつが十二だとして、あと七十六個しか残ってない。だから、まあ、だからなんだということはないか。

提出した原稿の受領メールにはコメントが添えてあって、人によって書きぶりは異なるのだけれどぜんぶ嬉しい。それが色よいものでなくたっていい。自分さえ読めればそれで最低限のことは済んでしまうともいえる日記とちがって、媒体ごとの読者というか醸成している地場のようなものがあって、そこに闖入していくという意識があるから、日記よりも書いているあいだはずっとひとりという感じがする。だからひとりでも別の誰かが宛先として立っていてくれるというのにほっとする。これが僕にとって原稿仕事がたまの僥倖だからこその感慨なのか、売れっ子になって毎月のように〆切があるようなことになってもそうなのか、試してみたいからもっと売れたい。しいたけ占いでも下半期は躍進の年だと書いていた。何座の話だったかは忘れたが、だいたいどの人類も躍進するぞという機運が高まっているようだったはず。

奥さんは原稿仕事で書く僕の文章を読んでもほとんど響かない。それで不安になっているようなテキストのほうがよそではちゃんと大事にしてもらえているということがままあって、だからよそで書くものは僕にとって僕が近くの人とは共有できないような部分を素材にして書くのだろうと思う。ふとした折にたまたま隣り合うことはできても、ずっと一緒はしんどい、そういう人としか共有できないものというのはあるし、それらをよすがに同居しようとすると破綻しがちであると思う。僕と奥さんは生理的な部分ではそこそこ似通っているが──週に洗濯を回す回数とか、賞味期限切れ後どれだけを許容するかとか、ドアを閉めるときの音への気遣いとか──、考えていることはそもそもの問いの立て方からまったく噛み合わないことも多い。それがいいのだと思う。僕は僕で、そうかこんなにも前提が違うのかと毎回ものの考える視座を相対化できるし、イチから説明しようとすると足場にしていたものたちの足腰が思った以上に弱いということが判明したりする。

しいたけによってほぐされる部分もだいぶ異なっているはずで、だからしいたけ占いはすごい。誰にでもある程度思い当たるパーソナルな感覚というのは、たぶん僕たちがふだん考えている以上に狭い。あらゆる生活感覚は階級の所産だからであるからだ。一方で、それでもヒトはヒトでしかないので、一定の条件下ではほとんど見分けがつかないほどに相似であることもまたありふれている。前者は下部構造のなかで再生産されるが、後者は上部構造として全体の気分をうっすら表象している。しいたけは上部構造を射抜いているからつよいのだ。下部構造が上位構造を規定するというのなら、生活感覚を先に撃つのがテレビなどの常套句であるが、これは階級間の差異がほとんど見えないほどに微小でなければうまくない。現代のように格差が露骨にせり出ているような状況では、ほとんど瀕死ではあるのだがそれでも巨大な遺物のように残置されてしまっている上部構造に狙いを定めたほうがマスに訴求しやすいのだろう。われわれは生活においてはすでに分離しているが、価値観の上では共通のものを使い古しているということを、しいたけ占いはさりげなく提示している。もとの掲載媒体がファッション雑誌のかつての王者『VOGUE』のWEB版というのもずいぶんと示唆的ではないか。

原稿が落ち着くと日記へかける労力が各段に上がるので、自分が一日に文字を使ってものを考える量というのはきっかりと限度があるのだなと思う。この上限をいまよりも高いところへと改めたい。そのための訓練としても、原稿中も日記をきちんと負荷をかけた書き方で書くべきだった。そんなことは余裕が出てきているから初めて言えることではあるのだが、僕の長所の一つに自分について言及する場合でさえ自分のことを棚に上げることができるというものがある。日記はもっと稽古場や物置として使い倒したほうがいい。反古にすべきものまでそのままに積み重ねてしまえるのが日記で、万が一意義があるとすれば一日一日に書いたものそれ自体にというよりも、その膨大な散らかりにこそある場であるのだから、作品として構築しようだとか、商品として洗練させようだとか、そういうのはすべて嘘くさいし続けるようなものとも思えない。日記はただ続ければいいだけだ。本当は原稿の試作や下書きもそのまま日記に載せてしまいたいのだが、さすがに守秘義務だとかあれこれを遵守するだけのあれはあるし、そうなると公開していることが厄介になってくる。稽古場を誰にでも開いておくというのはかなり重要なことでもあると信じているからこそ開けていて、さいきんはだらだらしがちであるが、たまには張り切ってなにかを試そうとしているような日もある。近年だらだらしがちであるのにはやはり中途半端に文筆の市場に片足をつっこんでいるというのもあって、さっぱり売れてないくせにいっちょまえに書くことについて書きやがるみたいなツッコミが自分から入るようになってしまった。これがまったく人から相手にされていないときであれば、そもそもこちらも市場を相手にしていないのだから数などどうでもよく、ただ個人の探求としていけしゃあしゃあと書くことができた。僕は商業に顔を出す前のほうがずっと堂々としていたし、そのまま堂々としているべきなので、ちらっと顔を出しただけでえらそうにしていると思われようとも、数がゼロのころからずっと不遜であったのだというバカらしさを押し通していきたいのが、これはなかなか難しい。ゼロよりもほんのすこしの数があるほうが、自分はなにでもないという気持ちに根拠が与えられてしまうようで、数というものによる説得の強力さを思い知るが、しかしやはり僕はこの強力さにこそ抗っていきたい。日記じたいは売れるための道具ではなく、読み書くための稽古場に過ぎないということを、日記を売ってしまうと忘れがちである。日記を本にして、そのあと日記をやめてしまう人たちのこと、なんとなくつまらなく眺めてしまう。ああ、日記という形態に可能性を見ていたわけじゃなかったんだ、というような。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。