『会社員の哲学』を書いてわかったことだが、僕がもっともつよく内面化している規範意識は「勤勉であれ」よりもむしろ「怠惰であれ」というものである。しかし本は前者を相対化するために書かれた。これはかなりねじれている。僕は人並みに勤勉である部分もありはするが、無理して怠けているようなときがないではないのだ。スタンダードブックストアでのトークのさい、午後さんはサボればいいと言われてもやはりどうにも頑張ってしまうのだというようなことを相談したらスズキナオさんに、サボるのをサボってもいいのでは、そう応えてもらって感銘を受けたと教えてくれた。僕はこのサボるのをサボるというのが苦手かもしれない。やってもやらなくてもいいようなとき、長期的にみるとより面倒になるなとわかっていてもなお、やらないほうを選び取ってしまう。なんというか、頑張らないといけなさがひっ迫しない限りおれは頑張らないぞみたいな謎の意地があるようなのだ。
そのくせ柿内正午としての僕は喜々として勤勉である。提示された〆切のずいぶん前に初稿を納品するし、メールの返信に要する時間も発注から出荷までのリードタイムもたいへんに短い。自分からイベントの企画書を作って本屋さんに持ち込んだりもするようになってきた。今週末は友田さんとつじこさんのイベントの賑やかし、来週は編境での店番をして、遊星Dのアフタートーク。再来週は夏目大さんと本屋象の旅でお話しする。遊星Dは一度くらい稽古場に行ってみたかったけれど、立地とスケジュールでなかなか厳しそうだった。働きながら制作することについてお話ししたくて、そうなるとやはり制作現場を見てこそだろう。別の話をするかもしれない。むしろ、兼業でないほうが希少であるのだから、そんな前提は放っておいて作品について語ったほうがいいだろうなとも思い直す。しかしその場で観てすぐになにかを語るというのは、かなり緊張するな。なにも準備できないから、緊張くらいしかやることがないとも言える。
きょうはギリシャ神話について知りたいことがあって藤村シシンのNHK講座のアーカイブを購入して作業中に流していた。リアルタイムでコメントを拾って講義を前に進める配信スターぶりに感心してしまうが、それによっていちいち停滞や脱線してしまうので、あとから筋の通った論を追いたくて見るとすこしもどかしくもある。リアルタイムで反応をもらえた人たちは楽しいし嬉しいだろうけれど。あらゆる創作史は二次創作の歴史として捉えることが可能というか、なにかしらの史観を持つというのは継承の系譜を描くということだ。
僕はとにかく人の名前も顔も一緒にどこかで遊んだことも覚えていられない。すぐに何でも忘れてしまうということを考える。だから日記を残すのだ、という話ではない。むしろぜんぶ忘れてしまうから、残るという実感が薄い。誰かが覚えているというのも疑わしいと思っている。常態としての健忘によって、日記を記録として捉える意識をもてないまま、ただただ日々流れ出していくものとして書いていく。だから読んで何かが残るとしたらそれはどこか嘘くさくて、なにも残らないくらいがいいはずなのだ。あとかたもなく消えていくけれど、今日も元気になにかしらの運動があった。動いていた。流れていた。そうした蠢きに満足して、楽しそうだった。そういうものとして、ただの体操のようなものとしてこの日記は書かれる。寝る前に書くとおざなりなストレッチみたいになるし、活発な日中に書き継いでいくともうちょっとウロチョロしたなにものかになる。やはり日中に書いてしまうほうがいい。振り返って記録するものがあると安易にそれに飛びついてしまうが、まだただなかにいると素材の選定から始まるのでいい。あとからなら収まってしまう。