2023.07.27

日傘をさしていると行きと帰りで同じ道を歩いても遮るべき直射の方向が異なるので、しぜん太陽の運行に注意が向く。マンゴーとキウイを買う。夏の食の喜びは果物かもしれない。

本を読む。柄谷行人は明治期キリスト教に傾倒したのは佐幕派の士族たちであったことを指摘し、平民と同列かそれ以下に引き摺り下ろされてなお自尊心を捨てきれないルサンチマンこそがかれらを宗教へと突き動かしたのだという。時流から脱落した元支配階級の無力感と怨望こそが、精神の近代化の動因であったのだと。

彼らは「告白」をはじめた。しかし、キリスト教徒であるがゆえに告白をはじめたのではない。たとえば、なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。それは告白が、ねじまげられたもう一つの権力意志だからである。告白はけっして悔悛ではない。告白は弱々しい構えのなかで、「主体」たること、つまり支配することを狙っている。(…)

柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』 (岩波現代文庫)

内村鑑三の「航海日誌」についての一節をひいてこう続く。

これを謙虚な態度とみてはならない。私は何も隠していない、ここには「真実」がある……告白とはこのようなものだ。それは、君たちは真実を隠している、私はとるに足らない人間だが少くとも「真実」を語った、ということを主張している。キリスト教が真理だと主張するのは神学者の理窟である。しかし、ここでいわれている「真実」は有無をいわさぬ権力である。 

告白という制度を支えるのは、このような権力意志である。私はどんな観念も思想も主張しない、たんにものを書くのだと、今日の作家はいう。だが、それこそ「告白」というものに付随する転倒なのである。告白という制度は、外的な権力からきたものではなく、逆にそれに対立して出てきたのだ。だからこそ、この制度は制度として否定されることはありえない。また、今日の作家が狭義の告白を斥けたとしても、「文学」そのものにそれがある。

同書

内面の自由を外的な権力に対置する発想は、対抗ではなくむしろ近代的な国家による支配構造を自明のものとしているからこそ成立するのだと柄谷はいう。自由な個人という主体は、近代国家の対応物である。両者は同時に成立した。国家と内面の相互補完関係に盲目なままでは、我々は現在の支配構造を追認することしかできない。僕は告白的な体裁のエッセイや私小説が嫌いだが、これはそのような作品が必然的に帯びる現状追認の性格への不信であろう。

夜はさっと作った茗荷と韓国海苔のあえもの、トマトと卵の炒め物。あまり手をかけないで野菜を食べるというのがいいのかもしれない。奥さんも思ったよりもたくさん食べてくれた。食後、一緒にコンビニまでお散歩。奥さんと歩いているとそれだけでうれしい。あずきバーとアイスまんじゅうを食べ比べて遊ぶ。録音もするが、咳喘息気味の奥さんはちょうど僕が熱弁を振るうタイミングで咳の気配があり、途中まで必死にこらえてくれたのだがそれによってポロポロと涙を流し始めた。僕は僕で懸命に話を切り上げようと頑張るのだが間に合わず、ずいぶん長い時間かわいそうだった。やっと中断するとすごい勢いで咳き込み、つらそうだった。おろおろすることしかできない。奥さんに無理をさせて苦しめてしまった、という自責の念はどんどん増していって、シャワーを浴びながらずいぶん落ち込んだ。昼間に観た『WEEKEND』という映画のムードもすこし後を引いているだろう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。