書き仕事を久しぶりに終えて、改めて自分の身の振り方を考える。売れたい気がするが、売れるようなものを書く気もせず、どちらかというと売れそうもないものを細々売るためにどうすればよいのかを考えたいようだった。どの棚にさしていいかわからんようなものしか書きたくないが、なるべくポップでありたいとも思っている。大衆とはジャンルからはみでる陳腐さのことだから。自分をある分類内に収めてよしとしているあいだ、大衆はつねに外部にしか見出せず、みずからのありふれたつまらなさに盲目でいられる。
ものごとは分けるとわかるというが、これは近代的合理主義の精神の所産であって、近代をみはるかすとき、むしろ分けては方向を見失う。分けてしまったものは、元に戻すのが困難だ。もともとごちゃ混ぜになっていたものがいったん鮮やかに分離されたとき、難しいのはそれらがどのように混ざってあったかを再現することのほうだ。
退勤後デートで奥さんとサイゼリヤに行って、それから『SLAM DUNK』の映画を観た。チバユウスケが格好よくて、あとの曲はちょうどよくダサかった。試合シーンはすべての瞬間が面白く、回想シーンはすでに数十年前の話であるところからさらに遡っているということをあまり感じさせない時代の空気の脱色の仕方が興味深いが、おおむねYouTubeの広告のようだった。ある少年が弱さを受け容れる物語の都合で殺された男たちよりも、ずっとしんどい娘と母のほうが報われない。話としては嫌いだったが、バスケのシーンはどれも素晴らしいので、まあ人間のことはいいか、と球をめぐってうごうごする肉体の面白さと伸縮する時間感覚に満足した。試合だけのバージョンでもっかいみたいが、たぶんそれだと疲れるし、間延びもするのだろう。言語を介すると瑕疵の多い作品であるが、ノンバーバルな部分はそれよりずっと大きく、その部分で楽しいマンガだった。アニメというより、動くマンガだった。動きの快楽がアニメーションとはべつのところに根拠がある感じ。とにかくいま重心なるべく低くしてボールをだむだむしてみたくてたまらない。
早起きしたから眠いはずなのに、すでに二時が見えている。