週末の『文学界』座談会の準備──といってもぼんやりとエッセイについて考えているだけだが──、そして原稿の準備──これもまたぼんやりと頭の片隅に置いておくだけ──が重なって、どうにもこの二三日は日記に身が入らない。日記は何でも容れておける便利な箱であるが、仕込み中のものまでぶちまけてしまうと発酵具合の半端なままわやにすることにもなりかねず、すこし時間をかけてやりたいようなものが渋滞しているとき、この箱の内容をみっしりと満たすようなことにまで気が回らないということもある。ちなみに僕は今週はじまって以来はひたすら京極夏彦の百鬼夜行シリーズの再読に励んでいるのだが、これを読んでいてもなおエッセイのことを考えているといっていい。なんなら僕にとってエッセイの原体験とは京極堂と関口との対話ではなかったかとすら思えてくる。おそらく僕にとって小説とはエッセイのための方便なのだ。百鬼夜行シリーズにおいてミステリっぽい仕立ては、中禅寺の詭弁じみた長広舌を読ませるための枠に過ぎない。そう考えてみれば、僕の書くエッセイの方法はだらだらつづく坂の上の古書店店主兼陰陽師の屁理屈と恥ずかしいほど似ているではないか。
その性質上どうしたって定義から逃れ続けるエッセイについて考えていると、これを個人的にどう定義づけるかがそのまま文芸への態度を表しているような感じになってくる。それでいうならば、僕にとってエッセイとは僕の好む文章表現すべてがもつ性格そのものであるかもしれない。僕にとっては一種の即興があるかないかがエッセイとそれ以外を分けている。ここでいう即興とは書き手が一筆書きで行うというのを意味しない。テキストと読み手のあいだの作用として、書かれている意味内容の外側へと思考が脱線していく契機がどれだけあるかこそが重要であると考えている。書かれる最中、読まれる最中に行為者のただなかに喚起するものの性質が即興のあるなしを決める。ただ書かれたようにしか読まれないもの、飛躍の余地のないテキストはエッセイではない、と言ってみてはどうだろうか。どうだろうかって言われてもねえ。
エッセイとは演技である。演技とはテキストの再現であり、行為の模倣である。そしてその再現としての模倣は、即興として行われなければならない。演技者はあらかじめ書かれたものを忠実になぞりながらも、あたかもそれがいまこの場所で自発的になされたものとして身振りを実行しなければ大根である。優れた上演とは再現性を保持しながらも一回性そのものである。振り付けられた即興。この二律背反こそが演技であり、僕にとってのエッセイである。そうひとまず言ってみる。
小説とくに娯楽性の高いそれは上演台本のようなものだ。ここでは読者の側が演技者として、テキストに沿って演技をすることになる。だからこそはらはら手に汗握ったりわくわく心躍ることになる。よくいわれる感情移入とは、上演されるテキストに用意された感情が演技する者のなかに設計通り生起することである。記された振付が忠実に再現される期待値が高ければ高いほど、それはエンタメ小説に近づき、記譜法じたいが演技の様相を一意に定めることを意図していないものが純文学めいてくる。その一方でエッセイや私小説は、そもそも演技者の座に読者を置かず、書かれた作中主体じしんが演技者として機能する。読者は観客として演技を外部から鑑賞し、その工夫や技巧を味わう。このように整理してみる。演技という発想を導入することで、テキストと読者の距離を測定してみるのだ。するとエッセイのほうが小説よりもいっそう読者から分離されたテキストであるといえる。エッセイ的なテキストを読むことは外部から演技を鑑賞することで、小説的なテキストを読むことは演技者として内部に入り込み自ら上演を遂行することである。
こんなふうに粗っぽいデッサンを描いてみる。これは僕個人の感覚には非常にしっくりくるのだが、ここまで書いてきた文字列が他の人と共有可能であるかどうか、いつも以上に覚束ない。もうすこし、この詭弁に説得力をもたせるための冗長性が必要だろう。もっとも、せっかちな僕の書くものはつねにこれが足りていないような気もする。月曜には夏だったものが、水曜には狂骨の霜月まできた。
