八月ってだらだら長いくせにぱっと終わる。九月の実感がなく、今月の予定がままならない。楽しみでぎりぎりまで労働の調整をしていた催しも、けっきょく賃金稼ぎの用事が片付かず断念することになった。九月一四日が『鵺の碑』の発売日である。きょうは『絡新婦の理』を読み終えて、これは『狂骨の夢』も『鉄鼠の檻』もそうだったのだが最後の最後まで読んでようやく。あ、これ読んだことある! と遡って幼いころの読書体験をまざまざと思い出すということを繰り返していて、じぶんの記憶の関口君っぷりを思い知る。『絡新婦の理』はとくにこの読了間際になって遡及的にじぶんは予めこの小説の全貌をすでに知っているのだということを確信する、その鮮やかさが顕著であった。性をめぐってインターネット上で繰り返される論点のぼやけた平行線のやりとり、というか交通不能は、この一冊であらかた出尽くしているようにも思えてくる。二十年以上前に書かれた、1954年を舞台とした小説でこれだ。ずいぶん長くかかって、ようやく現状の程度にまで理論が実生活に着地したとみるべきなのか、いまだに新奇なものかのように扱われている事態を異様とみるべきか、よくわからない。十代の初期にすでに僕はこの薫陶を受けていたのだな、という感慨が、このシリーズを読んでいるとしばしば起こる。『塗仏の宴』を読み出すとこれもまた読んだはずだという気配は感じるのだが、いかんせん何も思い出せない。これが終わるといよいよ自信をもって未読といえる『陰摩羅鬼の瑕』と『邪魅の雫』だ。このペースは、九月十四日までに既刊を読み終えているかどうかほどよく際どいものだ。いまでも廃人同然の密度で読んでいるのだ。別に間に合ったところでどうということはないのだし、ゆっくり読めばいいものを、もはやこれしか読みたくないのだから、他の本を読むためにもさっさと読んでしまいたいという、よくわからない理屈を捏ねて読み耽ることになる。
八月とともに夏気分も薄らぐが、とにかく僕は京極夏彦を読み終えないことにはこの夏休みじみた停滞を抜け出せないのだろう。九月はなんだかんだであれこれと用事が混んできているはずなのだ。明日には手帳に書き出して計画を立てないとどうにもならなくなるだろう。もしかしたらもうすでにどうにもなっていないのかもしれない。ともかく、今日のところはもうすこしだけ『塗仏の宴』を読んで、それから、奥さんとラジオブースから殺人鬼に追われる住民たちを守るゲームで遊んで寝よう。あとのことは後で考えれば、まあきっとなんとかだいじょうぶ。
